3
完全に脱力して床に座り込んだ泉は何かをぶつぶつと呟いている。その姿を一見した銀河は、一瞬泣きそうに顔を歪め、きゅっと唇を結ぶと改めてアキトに向き合った。
「イズミを利用したのか……彼女を、わざと逃がしたのか」
「当然だ」アキトがせせら笑う。「お前以外に誰が、この堅固な城から抜け出せる? お前が利用したダクトをそのままにしておいたのはなぜだと思う? イズミ・モリノには、ギンガ・シイナと接触し、誘導するように意思を植え付けた。お前が派手に動き回ってくれたお陰で、地球に戻ってきていると知ることができたから……彼女はどうだ?」アキトの笑いがどんどん大きくなってゆく。「可愛いだろう。健気に、お前の後を付いてきたのか? お前は彼女を保護しようと躍起になったのか? 俺の従順なペットだと知らずに?」笑いは狂気に染まっていき、すでに狂ったように部屋中に響いていた。
藤村さんの姿が銀河の脳裏に浮かんだ。
彼に取っては大きすぎる力を手に入れてしまったかわいそうな藤村さんは制御する術を知らずに完全に壊れてしまった目の前にいるアキトシーナと同じように壊れてしまった大好きだったお父さんは壊れてしまったからもうお父さんではない──
「雪をどうした……貴様の妻、椎名雪を……」銀河はぼそりと呟いた。これ以上でないだろうと思われるほどの低い声で。
「雪?」ピタリと笑いを止めたアキトが鼻白む。「雪などと……お母さんと呼びなさい、銀河。命をかけてお前を逃がしてくれたんじゃないか」
ぞわりと背筋を悪寒が走る。ちりっと脳が焼ける感覚に、銀河は目を細めた。
新たな記憶が色を取り戻してゆく。雪は血を流していた。白い肌に赤い液体のコントラストが映えて奇麗だった。彼女は銀河の両腕をきつく掴み、縋り付くようにして懇願した。両の瞳からは涙がひっきりなしに流れていた。
逃げなさい、銀河。私はもう動けません。だから、私のために行きなさい──お父さんはもうお父さんじゃない──
「あの女は俺の妻なんかじゃない。あの女は俺を裏切って貴様を逃がしたんだ。俺はあんなにもあんなにもあんなにも!」アキトが怒鳴る。「あの女を助けるために俺が息子を犠牲にしてまでどれだけ尽力したか分かっていなかったんだよ雪は!」
もはや正気であるようには見えなかった。目の前にいるのは父親の姿を模してはいるが、全く別の生物なのだと銀河はしっかり理解した。しかしそれは幸いだった。全てを終わらせるためには父親の温かい残像など必要ない。
「だが、あの女も今頃、地獄で悔しがっているだろう。助けたと思っていた息子が父親への憎悪の余りハンターと呼ばれる存在にまで上り詰め、片っ端からPSYを殺害し……俺の能力を増長させる手助けをしていたと知ってな!」
アキトがぶんと腕を振り回し、目を見張った銀河はとっさに床を蹴った。背後にあった機械がなぎ倒され、ばちばちと火花を吹く。床に降り立った銀河はあ然とそれを眺めた。大きい鉄の塊は重量も相当で、人間の力で簡単に動かせるものではない。隙をついてアキトが再び切り込み、銀河は軽いバックステップと共に身を屈めて彼の懐へ潜り込んだ。体を起こしざまに、同時に拳を振り上げる。ばくん、と嫌な感触が拳に伝わり、ふわりと一瞬宙に浮き上がったアキトの体は背後へふっ飛ぶと周囲の機材を巻き込みながら壁に衝突した。
慎重に様子をうかがいながらゆっくりと足を進め、銀河は床に沈む彼の姿がかろうじて見える位置で停止した。
「……どういう意味だ? 俺が貴様の力を増長しているというのは」
がらり、とアキトの上に積もった瓦礫が押しのけられる。ピクリと反応した銀河はとっさに腰の刀に手を伸ばしたが、すぐには抜かずに言葉を続けた。
「アンテナとは……一体、何だ」
「アンテナだよ、銀河」くっくっとアキトが低く笑う。壁に背を預けて座り、俯いている顔から表情は全く見えない。しかし声だけは愉快そうに弾んでいる。「俺とお前は繋がっている。一体だ。お前の能力は "模倣" もちろん自分で気付いているのだろう、銀河?」
刀の柄に手を掛けたまま、銀河は無言で肯定した。
もしも記憶が蘇っていなかったとしても、それは明白な事実だった。能力者と出会い、対峙するたび、使える力が少しずつ変わっていった。最初は手で触れずにものを動かす程度だった。それが、誰かの考えが分かるようになり、力量以上の力を振るうことができるようになり、誰よりも高く跳躍できるようになり、素早く動けるようになり、そして火星でフェイに出会ったあとは──
「フェイは干渉することができた。目の前の相手を、まるで最初から持っていた意思であるかのように考えを植え付け、意のままに動かすことができた……貴様がイズミにしたように」銀河がまっすぐに手の平をアキトに向けて突き出す。「俺も……貴様の意思を曲げることなど容易い」
「無駄だよ、銀河」アキトがうつむいたままでせせら笑う。「やってみろ。私を操ることができるなどと思うな」
キッとアキトをにらみ付けた銀河は、アキトの内に入り込もうとして──ハッと目を見開くと弾かれたように頭を抱えた。よろりと背後に蹌踉めき、踵に力を込めるとなんとか転倒を踏みとどまる。
「ははははは」アキトが笑う。そこで初めて顔を上げ、愉快そうに笑う。「言っただろう、銀河。無駄だよ。無駄、無駄。お前と俺は同調しているんだ」
鼻の辺りが生ぬるく、銀河は指で軽く拭った。指は朱色に染まっている。鼻血が出ていた。
アキトの脳内に侵入しようとした瞬間、弾かれたのだ。彼へ向けた力は真っ直ぐ銀河に跳ね返ってきて、脳を突き刺した。とっさに防御しなければ、どうなっていたか銀河にも分からない。
「お前が城壁を持っているのと同様、俺も持っている。お前が持っている力は全て、俺も持っている。俺には効かんよ」
「なぜ……」
絶望感に包まれて銀河は呻いた。どこかで奢っている部分があった。人と違う能力をなまじ持っているせいで、顔さえ付き合わせればアキト・シーナに留めを指し、狂った世界を変えられると思い込んでいた。だが今、ほんの数分で全てが覆され、無力感に苛まれている。床に蹲って振るえている泉一人、救えずにいる。
「物分かりの悪い息子だな。言っただろう、アンテナだ。俺とお前は限りなく近い遺伝子を持っている。だから同調させた……お前の能力を知ったときに、な。ほんの軽い実験のつもりだった。だが、思いのほか、アンテナはよく働いてくれている。お前が誰かを模倣するたび、俺の能力にも変化が起こる。だがな、銀河」ゆらりとアキトが体を起こす。「同じような能力を持つ人間は二人もいらない。支配者は二人いてはいけない……そうだろう。俺は見つけたんだよ、銀河……ついに見つけた。だからもうお前はいらない子なんだ」
ぎり、と歯がみした銀河はゆっくりと刀を抜いた。できれば。あわよくば。憎悪を向けてはいても、どこか、アキトが思慮深い人間であってくれればと思っていた。話して分かり合えるのであれば、そうしたかった。本来、父子の間に暴力が横たわるべきではない。だが。彼を止める術はもうこれしかないと分かっていた。
きっと、アキトも犠牲者の一人だ。余りに強大過ぎる能力に振り回された、かわいそうな人間。
刀を振りかざした銀河が床を蹴る。
体を起こしたアキトが身構える。
振り下ろされる刃を腕で受け止めたアキトは、横腹を強く蹴られて蹌踉めいた。すぐに体勢を立て直したが、いち早く間合いを詰めた銀河の拳が頬に振り下ろされる。派手に横転するアキトに駆け寄りながら刀をひゅっと上げた銀河は、躊躇わずに柄を両手で掴むと思い切り刃先を落とした。
ずしゃっ、と、鉄が肉に沈む馴染みの感触が手を伝わり、腕を駆け上り、鼓膜を震わせる。刃が肋骨の隙間を通り、全身へ血を送り出す器官が破壊されたアキトの体がびくりと大きく跳ね上がった。
「……なぜ……力は同じはず……」アキトの口から、びしゃりと赤黒い液体が噴射する。
銀河は口の端を歪め、かつて父親だった者を見下ろした。
「身体能力の違い……これはサイキックじゃない。俺自身の力だからだ」
「そうか……強くなった……ふふ……」ごふりと血を吐き出し、アキトが笑う。「ふふ……ははは……はははははは」
血流が堰き止められ、行き場のなくなった血液がごぼごぼと食道を上ってくる。仰向けになっているために喉の奥に溜まり、がろがろがろがろと、笑い声にノイズが走る。その音が余りに耳障りで銀河は顔をしかめた。




