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「ギンガの話をしてよ」

 唐突に泉の声が響き、銀河は意識を軌道修正した。

「アタイばっかり話して不公平だ。アキトさんの話が嫌なら、母ちゃんの話でもいいよ」

 先ほど切り出した通りに返され、銀河は軽く皮肉気な微笑を口元に浮かべたが、素直に話し始めた。

「どうということはない、普通の家庭だ。ただ母親は体が弱かった。いつも病院にいた。だから俺は父親と毎日病室へ通っていた」

「お見舞い?」泉が尋ねる。

「ん……学校で何があったとか、友達とこんなことをしただとか、母親に話すのが日課で、俺はそれを楽しみにしていた。父親はいつも黙って、少し後ろでそれを見ていた……」

 泉はそれきり口を閉ざしたので、銀河は自分自身の記憶を辿り始めた。

 そう、椎名秋人は必ず一歩下がったところから二人を眺めていた。そのときの彼の瞳は、まだ狂気には染まっていなかったはずだ。穏やかな思慮深い瞳をしていた。彼が守らねばならない二人の家族を慈愛を抱いて見守っていた。それなのになぜ、彼が残忍な人間でしかないと思い込んでしまっていたのか。一体いつからだろう。いつから、椎名秋人はアキト・シイナに代わり、椎名銀河は父親を "あの男" とみなして憎むようになったのか──

 ズキン、と激しい痛みがこめかみを貫き、動きを止めた銀河はとっさに手で触れた。もちろん外傷などない。しかし耐え難いまでの痛み。一筋の汗がたらりと額から流れ、頬を伝わり、顎からぽたりと床に落ちた。

「……ギンガ?」急に動きを止めたことを不審がり、泉が尋ねる。「どした? 気分でも悪いのか? 臭いのせいか? アタイはもう慣れちゃったけど……」

「大丈夫だ、先へ進もう」辛うじて声を絞り出しながら、銀河はきつく歯を食いしばった。

 何かがすぐそこまで来ている。思い出そうとしているのにフィルターがかかっている。何かが記憶を堰き止めているのだ。手を伸ばせばすぐそこに、指先が掠る位置まで──


 不意に終わりは訪れた。

 ダクトの先は行き止まりになっており、手が今までとは質感の違う金属に触れる。金網から下のライトが漏れ出して顔を照らした、その瞬間。

 まるで洪水のように光が頭の中に流れ込んできた。白くまばゆい、窓。何かが描かれている。たくさんの絵、文字、記号、いろいろ。だがハッキリと読み取ることはできない。雪の顔が一瞬見えた。緑に塗れる木の枝。風に靡く白い布。あれは、そうだ、病室のカーテン。シミ一つない、眩しいほど白い布がはためく。光はどんどん収束していって、最後に文庫本ほどのサイズになり、銀河の奥深くへ吸い込まれるように消えていった。

 軽く目を細めた銀河は、はあっと喘いだ。知っていたはずだ。この通路を以前にも通ったことがあるのだから。場所も臭いも光景も全て知っていた。古い記憶とぴったり一致する。何一つ変わってはいない──網目に指を差し込むと力を込めて上へ引き上げた。予想以上にあっさりと金網は外れ、脱出口がくっきりと浮き上がる。

 躊躇せずに飛び降りた銀河は、膝を曲げ、トッと爪先で降り立った。端から見ればしなやかな猫のように。その背後に間髪入れず泉が降ってくる。彼女もまた器用に、軽やかに着地し、ぐるりと部屋を見渡した。

 変わっていない……頭の中で銀河はつぶやいた。そうして痛ましく目を細めた。

 藤村さんと最後に言葉を交わしたのはここだ。真っ白な部屋。何もない。壁も、天井も、置いてある家具も器具も全てが白一色の世界。藤村さんもまた白い服を着ていた。彼の髪は真っ白に変わっていた。何もかも記憶通りだ。藤村さんは口を動かさなかった。だがハッキリと銀河に言ったのだ。


 いい天気ですね、坊ちゃん。


 そう、藤村さんは銀河によく似た能力を持っていた。いや、植え付けられた。誰に──アキト・シーナに。しかし藤村さんの心はそれに耐えることができなかった。彼は錯乱し、土砂降りと晴天が区別できないほどになってしまった──

「……なんだか、気持ち悪い、ここ」呟いた泉は自分自身を両腕で抱え込むようにして、ぶるりと身を震わせた。「ギンガ、早く出ようよ。他の場所に行こう。アタイ、嫌だよ。ここにいたくない」

「いや……」気のない返答をしながら銀河は一歩前に踏み出した。「ここが正しい……ここで合っているんだ。ここは俺が生まれた場所──」

「生まれた?」泉がただでさえ大きな瞳を見開く。「どういうこと、ここ、病院なのか? だから白いのか?」

「違うよ、泉……なんのことはない」銀河は力なく笑った。「俺もお前と一緒だったってこと……創られた存在なんだ」

「創られた……」泉は全く理解できず、ただ銀河の言葉を復唱した。

 全てが鮮明に蘇った今、銀河の記憶は完璧で巨大な一個のデータバンクだ。膨大な記憶の全てを蓄えている。十数年間の人生の全てを。


 椎名雪は体の弱い女性だった。子どもをなすなど不可能だった。しかし彼女はそれを望んだ。だから生体研究所に所属していた椎名秋人は最愛の妻の望みを叶えた──椎名銀河を創りだした。彼女の卵子と自分の精子を使用して。つまり、銀河が病院だと信じて足げく通っていた建物は、この研究所だったのだ。

 しかし雪の病気は遺伝性疾患だったから、秋人は息子の遺伝子に改良を加えなくてはならなかった。そうして偶然に発現したのが、銀河が持っていた力──手で触れずにものを動かす力。それからずっと秋人は、息子を見守り続けてきたのだ。

「実験体として……」目を瞑り、うつむいた銀河は頭を強く振った。

 根底に流れる父への憎悪、それはモルモットとしての反発なのかもしれないと銀河は思った。幼い銀河が必死で父に隠そうとした秘密。母親が墓場へ持っていこうとしていた息子の秘密。それを秋人は知っていた。知った上で、息子を献体として研究を続けていたに違いない。

 数いた使用人は、実験体として使い捨てされた。成功したかに見えた藤村さんは、精神に支障をきたし結局使い物にはならなかった。雪は──雪は、どうなったのか。銀河はハッと顔を上げた。雪についての記憶だけがまだ抜け落ちたままだ。最後に覚えているのは、二人が口論しているところ。雪は激しく怒っていた。穏やかで優しい彼女にしては珍しいほどの憤怒。秋人は──そのとき秋人は、どうしていたのだろう。どのような表情で、思いで、妻と対峙していたのだろう。


「おかえり、イズミ」

 部屋の中に穏やかな声が響き渡り、銀河と泉は同時に声の主を仰いだ。

 アキト・シーナが立っている。穏やかな微笑をたたえ、両手を広げ、まるで彼の人のような神々しい姿で。彼は変わらず穏やかに、それでもどこか淡々とした口調で続けた。

「待ちわびたよ……指示通り、ちゃんと銀河を連れてきたんだね。いい子だ……」

「え……」泉の顔が恐怖に歪む。

 銀河は弾かれたように彼女を振り返った。混乱した様子で頬に手を付ける泉の瞳にパニックの色が広がる。

「ちが……何……アタイは……」

「いい子だ、イズミ。こちらへおいで」アキトが一層、腕を広げる。

「あ……あ? じいちゃん……?」

 ふらりと足を踏み出す泉の腕を、力一杯銀河は引いた。

「イズミ!」

 まるで夢遊病者のようにその手を払った泉は、「じいちゃん……」呻くように再び言った。

「貴様も……」床にへたり込む彼女の体を支えながら、銀河はきつくアキトを見上げた。「干渉士……か……」

「帰ってくると信じていたよ、銀河」アキトの口元に歪んだ微笑が浮かぶ。「火星へ逃げられたときはどうなることかと思ったが……アンテナがうまく働いてくれた。おかげでお前はたくさんの力を手に入れたな? この」言葉を切った彼は、目の前に持ってきた手の平を眺めながら続けた。「相手に干渉する、あの小娘の力は使い勝手がいい」

 あの小娘──銀河の頭に一瞬にして血が昇る。

「フェイのことか……」

「お前はその手であの小娘の息の根を止めたな? そうして、模倣した……それでいい、銀河。お前が模倣するたび。お前が成長するたび。俺も共に成長していく。お前と俺は繋がっているのだから」

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