第6話 捨てた男の後悔
平穏な日々に、嵐の前触れが訪れたのは、公爵邸に来て三週間目のことだった。
その日、アネットが温室でヒールリーフの株分けをしていると、クラウスが慌ただしくやってきた。老執事が眉を曇らせている姿は珍しい。
「アネット様、お手紙です」
「お手紙?」
差し出された封筒には、見覚えのある紋章が刻まれていた。
獅子と剣——グランツ侯爵家の家紋。
アネットの手が、無意識に強張った。
「……アルベルト様から?」
「さようでございます。使者が直接届けに参りました」
封を切る指が震えた。中に入っていたのは、丁寧な筆致で書かれた一通の手紙。
『親愛なるアネットへ
突然の手紙を許してほしい。あの日の非礼を、僕は深く後悔している。
冷静になって考えれば、君を手放したのは最大の過ちだった。
どうか一度、会って話をする機会をもらえないだろうか。
君が戻ってくることを、心から願っている。
永遠の後悔とともに
アルベルト・グランツ』
手紙を読み終えたアネットは、しばらく動けなかった。
——戻ってきてほしい?
「代わりなどいくらでもいる」と言った人が?
「アネット様、お顔の色が優れません。大丈夫でしょうか」
「……ええ、大丈夫よ、クラウスさん。ありがとう」
大丈夫ではなかった。手紙を持つ手はまだ震えているし、心臓がうるさいくらいに鳴っている。怒りなのか悲しみなのか、自分でもわからない。
夕食の時間。
アネットは努めて普段通りに振る舞ったが、食が進まなかった。スプーンを持つ手が時折止まり、ぼんやりと考え込んでしまう。
「食わないのか」
ルシアンの声で我に返った。
「あ——すみません。少し、考え事をしていて」
「体調が悪いなら無理をするな」
「いえ、そういうわけでは——」
「手紙のことか」
アネットは顔を上げた。ルシアンは無表情のまま、じっとアネットを見ている。
「ご存知、なんですか」
「グランツ家の使者が来れば、嫌でもわかる」
ルシアンの声には感情が読み取れない。けれど、グラスを持つ手にわずかに力が入っていることに、アネットは気づいた。
「……アルベルト様から、戻ってきてほしいと」
「で、どうする」
「え?」
「戻るのか、と聞いている」
その問いに、アネットは一瞬言葉を失った。そしてゆっくりと首を横に振った。
「戻りません」
「……そうか」
ルシアンの手から、かすかに力が抜けた。ほんの一瞬の変化。見逃しそうなほど小さなそれを、アネットは見逃さなかった。
「もう私は、あの方のものではありません。今の私には——ここでやるべきことがありますから」
庭のこと。薬草園のこと。月光花のこと。
そして——ルシアンの隣にいること。
最後の一つは、口にはしなかった。
「賢明だな」
ルシアンはそれだけ言って、食事に戻った。
だが、アネットはこの食事中、初めてルシアンが「おかわり」を頼んだことに気づいた。いつもは小食なのに。
——もしかして、安心したから食欲が出たのかしら。
考えすぎだと自分を戒めつつ、アネットもスプーンを手に取った。不思議と、食欲が戻っていた。
翌日。
アネットはアルベルトへの返事を書いた。
『アルベルト様
お手紙、確かに拝受いたしました。
お申し出についてですが、辞退させていただきます。
あの日、あなたがおっしゃった言葉を、私は忘れていません。
私の代わりがいくらでもいるのなら、あなたにもまた別の方がいらっしゃるでしょう。
どうかお元気で。
アネット・レイヴンクロフト』
簡潔で、きっぱりとした返事。
三週間前の自分なら書けなかった文面だ。あの頃は、アルベルトに捨てられたことで自分の価値を見失っていた。
でも今は違う。
自分の力を認めてくれる人がいる。自分の存在を必要としてくれる場所がある。
手紙を封じて、クラウスに託した。
「よろしいのですか、アネット様」
「ええ。もう迷いません」
クラウスは満足そうに微笑んで、手紙を受け取った。
ところが——事態はアネットの想像以上に深刻だった。
数日後、ルーシーが慌てた様子で温室に飛び込んできた。
「アネット様! 大変です!」
「どうしたの、ルーシー」
「グランツ侯爵家のことなんですが——セレナ・ホルスト様の実家、ホルスト家が不正取引で告発されたそうです!」
「え……?」
「それで、グランツ家はホルスト家との縁談を白紙に戻す方向だとか。アルベルト様がアネット様に手紙を送ったのは、ホルスト家の没落を見越してのことらしいんです」
つまり——アルベルトがアネットに戻ってきてほしいと言ったのは、愛からではなかった。セレナの後ろ盾が崩れたから、別の「使える」婚約者が必要になっただけ。
アネットは深く息を吐いた。
「……そう。やっぱり、そういうことだったのね」
悲しいというより、呆れに近い感情が湧いた。五年も一緒にいたのに、あの人は最初から最後まで、アネット自身を見ていなかったのだ。
「アネット様……お辛くないですか?」
「大丈夫よ、ルーシー。もう、あの方のことで泣く涙はないわ」
アネットは笑って、ヒールリーフの手入れに戻った。
指先から緑の光が漏れ、薬草が嬉しそうに葉を揺らした。
——ここが、私の居場所だ。
強くそう思った。




