第2話 氷の公爵と荒れた庭
ラヴロック公爵邸は、王都の一等地にありながら、どこか寂しい雰囲気を纏っていた。
広大な敷地に建つ白亜の屋敷は荘厳そのものだが、窓に灯る明かりは少なく、門から続く並木道の木々も手入れが行き届いていない。
馬車が正面玄関に横づけされると、出迎えたのは初老の執事だった。
「お帰りなさいませ、旦那様。——おや、お客様ですか」
「クラウス。客間をひとつ用意しろ。それと、着替えと食事も」
「かしこまりました」
クラウスと呼ばれた執事は、ずぶ濡れのアネットを見ても眉ひとつ動かさず、淡々と指示を出し始めた。さすがは公爵家の執事といったところか。
アネットは案内された客間で温かい湯浴みをし、用意されたドレスに着替えた。どうやら屋敷に来客用の衣装が常備されているらしい。淡い水色のワンピースは少し大きかったが、凍えた体には何でもありがたかった。
食堂に通されると、ルシアンがすでに席についていた。
長い食卓に、たった二人。使用人の数も少ないようで、広い食堂はがらんとしている。
「座れ」
「は、はい」
アネットが恐る恐る着席すると、温かなスープと柔らかいパン、それに丁寧に焼かれた魚料理が運ばれてきた。
空きっ腹に染み渡る食事に、思わず目が潤んだ。
「……おいしい、です」
「そうか」
ルシアンは自分の食事には手をつけず、じっとアネットが食べる様子を見ていた。
その視線が気になって顔を上げると、すかさず目を逸らされる。
「……ルシアン様」
「敬称はいらない。ルシアンでいい」
「で、では……ルシア……」
呼び捨てにしようとして、声が尻すぼみになる。初対面の公爵をいきなり呼び捨てにする度胸など、アネットにはなかった。
「……やっぱり、ルシアン様とお呼びしてもよろしいですか」
「……好きにしろ」
呆れたような、けれど怒ってはいない声。アネットは少しだけほっとした。
「では、ルシアン様。あの、私は公爵邸で何をすればよいのでしょうか」
「明日、決める。今日は休め」
それだけ言って、ルシアンは席を立った。食事にはほとんど手をつけていない。
食堂を出ていく背中を見送りながら、アネットは不思議に思った。冷たい人だと聞いていたが、言葉は素っ気なくても行動はどこか——優しい。
翌朝。
アネットが目を覚ますと、窓の外は快晴だった。昨日の雨が嘘のような青空が広がっている。
着替えを済ませて食堂に向かうと、クラウスが待っていた。
「おはようございます、アネット様。旦那様が庭でお待ちです」
「庭?」
案内されて屋敷の裏手に出たアネットは、思わず足を止めた。
「……これは」
そこには広大な庭園が——いや、かつて庭園だったものが広がっていた。
雑草が生い茂り、花壇は崩れ、噴水は枯れている。植え込みの樹木は伸び放題で、かろうじて小道の形跡が残っているものの、ほとんど廃墟と言っていい有り様だった。
「ひどいだろう」
背後からルシアンの声がした。振り返ると、彼は庭園の惨状をどこか遠い目で見つめている。
「もう何年も手入れをしていない。庭師も辞めてしまった」
「どうして……こんなに美しい造りなのに」
荒れ果ててはいるが、庭園の設計自体は見事だった。曲線を描く小道、段差を利用した花壇の配置、中央の噴水を囲むように配された薔薇のアーチ。手をかければ、きっと素晴らしい庭になる。
「昔、母が世話をしていた」
ルシアンは短くそう言って、それ以上は語らなかった。
「お前の仕事はこの庭の管理だ。好きにしていい。必要な道具や苗があれば、クラウスに言え」
「……私でよろしいのですか?」
「植物が得意だと聞いた」
アネットは驚いた。そんな話をした覚えはない。レイヴンクロフト家のことを調べたのだろうか。
だが、それ以上問い詰める前にルシアンは踵を返してしまった。
「あっ、あの……!」
「なんだ」
「ありがとうございます。大切な庭を、私に任せてくださって」
ルシアンは足を止め、ちらりとアネットを振り返った。
「礼を言うのは早い。結果を出してからにしろ」
相変わらず素っ気ない言葉。だけど、その声音には棘がなかった。
アネットはさっそく庭の手入れに取りかかった。
まずは雑草を抜き、崩れた花壇の土を起こす。長年放置された土は硬く、根が深く張っていて、一朝一夕にはいかない。
それでも、土に触れている間は余計なことを考えなくて済んだ。アルベルトの言葉も、セレナの嘲笑も、少しだけ遠くなる。
「代わりなんて、いくらでもいる——か」
独りごちて、雑草を力いっぱい引き抜いた。
「……ここの花壇には、何が植わっていたのかしら」
土の中に残った根を調べると、かすかに甘い香りが漂った。月下香か、あるいはジャスミンの一種か。かつてこの庭がどれほど美しかったか、かすかな残り香が教えてくれる。
「アネット様」
ふと声をかけられて顔を上げると、メイドの少女が立っていた。赤毛をおさげにした、そばかすの浮かぶ可愛らしい顔立ち。
「私、メイドのルーシーです。旦那様から、アネット様のお世話をするよう仰せつかりました。お茶をお持ちしました」
「まあ、ありがとう。ルーシー」
トレイに載せられたお茶とサンドウィッチを受け取って、アネットは庭の縁に腰を下ろした。
「あの、アネット様。差し出がましいことですが……」
「なあに?」
「旦那様が、こうして誰かを屋敷に連れてきたのは初めてなんです」
ルーシーは少し興奮した様子で、声をひそめて続けた。
「この屋敷に来てから五年になりますけど、旦那様は来客もほとんどお断りになりますし、社交界にも最低限しか顔を出されません。なのに、見ず知らずの方を連れてきて、しかもお庭の世話を頼むなんて……」
「そう、なの?」
「はい! しかも、今朝方、旦那様が厨房にいらして——」
「厨房に?」
「『客人は昨夜ろくに食べていなかっただろうから、朝食は多めに用意しろ』って。旦那様が食事の指示をされるなんて、本当に初めてのことで、料理長も目を丸くしていました」
アネットは思わず手元のサンドウィッチに目を落とした。確かに、今朝の朝食は品数が多かった。スープにサラダ、パンにジャム、卵料理にフルーツまで。一人では食べきれないほどの量だったのは、ルシアンの指示だったのか。
「……優しい方なのね」
「はい! ただ、旦那様はそれを絶対に認めませんけど」
ルーシーはくすくすと笑った。
昼過ぎ、アネットが花壇の一角を整え終えた頃、ふと気配を感じて振り返った。
屋敷の二階、書斎の窓から、ルシアンがこちらを見ている。
目が合った瞬間、カーテンがさっと閉じられた。
「……ふふ」
アネットは小さく笑った。氷の公爵は、どうやら見た目ほど冷たくはないらしい。
夕刻。一日の作業を終えて泥だらけの手を洗っていると、再びルシアンが姿を現した。
「進捗は」
「雑草を抜いて、花壇をいくつか整えました。ただ、土が痩せているので、すぐには花は咲かないと思います」
「急がなくていい」
ルシアンは荒れた庭を見渡した。その銀灰色の瞳に、ほんのわずかな——本当にわずかな期待のようなものが滲んだ。
「……この庭に花が咲くのは、十年ぶりになるな」
そう呟いたルシアンの横顔は、いつもの冷たい仮面が少しだけ外れていて。
アネットは、この庭を必ず蘇らせようと、静かに心に誓った。




