第1話 捨てられた令嬢
薔薇が香るグランツ侯爵家の応接室で、アネット・レイヴンクロフトは婚約破棄を言い渡された。
「——悪いが、アネット。君との婚約はなかったことにしてくれ」
目の前に立つアルベルト・グランツは、申し訳なさそうな顔ひとつせず、むしろ清々しい笑みすら浮かべていた。
その隣には、見知らぬ女性が寄り添っている。豊かな金髪に碧眼、華やかなドレスに身を包んだ彼女は、勝ち誇ったようにアネットを見下ろしていた。
「こちらはセレナ・ホルスト。僕の——新しい婚約者だ」
アネットは言葉を失った。
五年だ。五年間、アルベルトのために尽くしてきた。彼の好む料理を覚え、彼の趣味に合わせた話題を勉強し、彼の母親にも気に入られるよう努力を重ねた。
それなのに。
「……理由を、聞いてもいいですか」
声が震えないように、必死に唇を引き結ぶ。
「理由?」アルベルトは肩をすくめた。「特にないよ。ただ、セレナのほうが僕にはふさわしい。それだけだ」
「あら、アルベルト様。はっきりおっしゃったほうがよろしくてよ」
セレナが甘い声で割り込んだ。わざとらしくアルベルトの腕に手を絡ませ、アネットに向かって微笑む。
「レイヴンクロフト家は名門とはいえ、もう昔日の栄華はないでしょう? 領地経営も厳しいと聞いていますわ。それに比べて、わたくしのホルスト家は新興ながらも豊かな資金力がございますの」
つまり、金か。
アネットの実家が経済的に傾いているのは事実だった。父が病に倒れてから領地の収入は減り、かつての隆盛は見る影もない。
「お前の代わりなどいくらでもいる。——いや、正直に言えば、最初からお前でなくてもよかったんだ」
アルベルトの言葉が、胸に突き刺さった。
最初から。
五年間のすべてを否定する、残酷な一言。
「……わかりました」
アネットは静かに立ち上がった。涙は見せない。この男の前では、絶対に。
「婚約の件、了承いたします。お二人の幸せを、お祈り申し上げます」
最後まで淑女としての矜持を保って、アネットは応接室を辞した。
廊下に出た途端、膝が震え始めた。壁に手をついて、なんとか体を支える。使用人たちの視線が刺さる。きっと、もう屋敷中に噂が広まっているのだろう。
——代わりなどいくらでもいる。
その言葉が、何度も頭の中で反響した。
アネットは自分が特別な人間でないことは知っていた。容姿は目立たない栗色の髪に灰色の瞳、性格も地味で華やかさに欠ける。唯一の取り柄と言えば、植物の世話が得意なことくらいだ。
だけど、五年もの歳月をかけて築いたものが「代わりがきく」と言われるのは——想像以上に、痛かった。
実家に戻ることはできない。病床の父にこれ以上の心労をかけたくなかった。
かといって、王都に留まる理由もない。
「……どこか、遠くへ行こう」
呟いた声は、誰にも届かなかった。
荷物をまとめるのに、さほど時間はかからなかった。グランツ家に置いていた私物はわずかな着替えと、母の形見の髪飾りだけ。五年間通い続けた場所なのに、自分の痕跡がほとんど残っていないことに、アネットは苦笑した。
王都の街路に出ると、空はどんよりとした灰色に覆われていた。まるで今の気持ちを映し出したかのような空模様だ。
乗合馬車の停留所に向かう途中、ぽつりと頬に冷たいものが落ちた。
雨だ。
傘を持っていなかった。荷物を抱え直して足を速めたが、雨脚はみるみるうちに強くなり、あっという間に全身がずぶ濡れになった。
「……っ」
朝からほとんど何も食べていない体に、冷たい雨は容赦がなかった。視界がぼやける。足がもつれた。
——ああ、みっともない。
こんなところで倒れるなんて。せめて誰にも見られない場所で泣きたかったのに。
石畳に膝をつきかけたその瞬間、不意に雨が止んだ。
いや、止んだのではない。頭上に大きな黒い傘が差しかけられていた。
「……おい。こんなところで何をしている」
低く、冷たい声が降ってきた。
見上げると、そこには——漆黒の髪に、氷のような銀灰色の瞳を持つ男が立っていた。
長身で、仕立ての良い黒い外套を纏っている。整った顔立ちは彫刻のように美しいが、その表情には一切の感情が見えない。
アネットは、その男を知っていた。
社交界で「氷の公爵」と恐れられる人物。
ルシアン・ラヴロック公爵。
王国随一の名門貴族にして、冷酷無比と噂される男。社交界では誰も彼に近づこうとせず、令嬢たちは美しい容姿に見惚れつつも、その凍てつくような眼差しに震え上がるという。
「……すみ、ません……」
立ち上がろうとして、また膝が崩れた。情けないことに、体がまったく言うことを聞かない。
ルシアンは無言でアネットを見下ろしていた。雨音だけが、二人の間に降り注ぐ。
そして——
「乗れ」
短い一言とともに、ルシアンはアネットの腕を掴んで引き起こした。驚くほど簡単に体が持ち上がる。
「え……?」
「馬車だ。乗れと言っている」
ルシアンは問答無用でアネットを抱え上げると、すぐそばに停まっていた漆黒の馬車——ラヴロック公爵家の紋章が刻まれた馬車へと運んだ。
馬車の中は暖かかった。
ルシアンは向かいの席に座り、濡れたアネットに自分の外套を投げてよこした。
「……あの、どうしてこんな……」
「目障りだった」
ルシアンは窓の外に視線を向けたまま、素っ気なく言った。
「道の真ん中で倒れられては通行の邪魔だ。それだけのことだ」
優しさからではなく、ただの合理的判断。
そのはずなのに——差し出された外套は、じんわりと温かかった。
「……ありがとう、ございます」
アネットが小さく礼を言うと、ルシアンはわずかに眉を動かした。
ほんの一瞬、銀灰色の瞳がアネットの顔をまっすぐに捉える。
「——名前は」
「アネット・レイヴンクロフトです」
「レイヴンクロフト……」
ルシアンは何かを考え込むように沈黙した。そして、短く息を吐いて言った。
「行く宛はあるのか」
「……いえ」
「ならば、うちに来い。人手が足りていない」
あまりにも唐突な申し出に、アネットは目を見開いた。
「え……? あの、初対面ですのに——」
「断るなら降ろす。好きにしろ」
取りつく島もない態度。けれど、アネットにはほかに行く場所がなかった。
雨に打たれた体は冷え切っていて、これ以上一人でさまよう気力もない。
「……では、お言葉に甘えます」
その返答を聞いて、ルシアンは再び窓の外に目を向けた。
表情は相変わらず凍りついたように動かない。
だけどアネットには、ほんの一瞬——本当にほんの一瞬だけ、彼の口元が緩んだように見えた。
漆黒の馬車は、雨の王都を静かに走り出す。
捨てられた令嬢と、氷の公爵。
二人の物語は、冷たい雨の日に始まった。




