第8話 鳴かない森
朝、家の外に出ると空気が少し湿っていた。夜のあいだに霧が出たらしい。畑の上に薄く白いものが残っている。風が弱い。匂いが地面に残っている。土の匂い。濡れた草の匂い。
桶を持って井戸へ向かう。道は少し柔らかい。靴底が土に沈む。広場を通る。井戸の縄がまだ濡れている。滑車を回すと、水が落ちる音が深く響く。
桶を持ち上げる。水面が揺れる。縁から少しこぼれる。手の甲に水がかかる。冷たい。
桶を持って家へ戻る途中、森のほうを見る。村の北側にある森だ。いつもなら朝は鳥が鳴く。枝の上で動く影も見える。でもその日は、音が少なかった。
風の音だけが聞こえる。枝が擦れる音。葉が揺れる音。それだけだ。
家に戻る。桶を樽に移す。母さんが鍋をかき回している。火の匂いがする。煙が少し出ている。
「森、静かだ」
俺が言う。
母さんは鍋を見たまま答えた。
「寒いからじゃないかね」
俺は戸口に立って森を見る。
枝が揺れている。
でも鳥は見えない。
昼前になると、村の外から羊の声が聞こえた。放牧している羊だ。鳴き声がいつもより高い。短い。何度も鳴く。
広場で男が話していた。
「狼か」
別の男が言う。
「昨日も柵の外で見た」
俺はその横を通る。井戸の縄を持つ。桶を下ろす。水を引く。滑車が鳴る。
バドが広場にいた。木剣を持っている。取り巻きも一緒だ。
バドが言う。
「狼なら狩る」
取り巻きが笑う。
「お前がか」
バドは木剣を振る。空を切る音がする。
俺は桶を持ってその場を離れる。
家の裏へ回る。
地面には、昨日並べた石がまだ残っている。風で少し動いている。形は崩れていない。
俺はしゃがんで石を直す。
丘の位置。
森の位置。
村の位置。
石を一つ動かす。
森のほうに置く。
そのとき、遠くで犬が吠えた。
短く。二回。
俺は顔を上げた。森を見る。
風が少し強くなる。枝が揺れる。
夕方になるころ、父さんがよく使っていた見張り台に男が上がった。自警団の一人だ。槍を持っている。台の上から森を見ている。
村の空気が少し変わった。人が家の前に出る。畑の仕事を早く終える。家畜を柵の中へ入れる。
母さんが言った。
「鶏、入れときな」
俺は鶏小屋の戸を開ける。鶏が三羽いる。羽をばたつかせる。餌を少し投げる。中に入る。戸を閉める。木の棒で留める。
空が赤くなり始めた。太陽が山の向こうへ下がる。影が長くなる。村の道が暗くなる。
見張り台の男が笛を鳴らした。
短い音。
一回。
広場の男たちが顔を上げる。
「何だ」
誰かが言う。
見張り台の男が叫んだ。
「動いた!」
その声が村に広がる。
広場の男たちが森を見る。
俺も森を見る。
木の間が揺れていた。
枝が動く。
葉が揺れる。
最初は風だと思った。
でも動き方が違う。
低い影が動いている。
一つじゃない。
二つ。
三つ。
もっと。
広場の男が言った。
「……多いぞ」
見張り台の男がまた叫ぶ。
「群れだ!」
その声と同時に、森から音が来た。
低い唸り声。
枝を踏む音。
狼より重い音だった。
広場の空気が止まる。
誰も動かない。
次の瞬間、団長が叫んだ。
「武器!」
男たちが家へ走る。
槍を取りに行く。
斧を持つ。
母さんが俺の腕をつかんだ。
「家にいな」
俺は森を見たままだった。
木の間の影が増えている。
見張り台の男がまた笛を鳴らす。
今度は長い音だった。
森の奥から、低い声が重なった。
唸り声。
何匹も。
太陽が完全に沈んだ。
村の外が暗くなる。
森の影が、ゆっくり動き始めた。




