第5話 父の遺品
出発の日の朝は、いつもより早く目が覚めた。まだ空が暗い。窓の隙間から入る光が弱い。天井の木目がぼんやり見える。家の中は静かだった。
体を起こす。藁の寝床が少し沈む。毛布を肩から外すと、冷たい空気が背中に当たる。足を床に下ろす。板が冷たい。靴下の布が薄いから、冷えがすぐ足に伝わる。
炉の火はもう起きていた。小さい火だ。赤い炭が残っている。母さんがその前に座っていた。背中が丸い。鍋の中を木匙で混ぜている。匙が鍋の縁に当たる音が小さく響く。
「起きたのかい」
母さんが振り返らずに言った。
「うん」
声を出すと、喉が少し乾いていた。水桶のところへ行く。柄杓で水をすくう。口に入れる。冷たい。歯が少し鳴る。
家の戸が開いた。父さんが入ってくる。外の空気が一緒に入る。少し湿った匂いがした。夜露の匂いだ。
父さんは肩に袋をかけていた。昨日母さんが詰めた袋だ。腰には斧。柄が見える。刃には布が巻いてある。
父さんは炉のそばに来て、手を火にかざした。指が太い。節が固い。火の光で影が床に落ちる。
母さんが椀を三つ並べた。鍋から汁をよそう。湯気が上がる。豆の匂い。塩の匂い。干し肉の匂い。
三人で卓につく。椅子が少し軋む。木の卓は古い。角が丸く削れている。
誰もすぐには話さなかった。匙が椀に当たる音だけがする。外で鶏が鳴いた。遠くで犬が一度吠えた。
父さんが汁を飲んだ。椀を卓に置く。
「今日、昼前に出る」
母さんがうなずく。
「村の連中も一緒かい」
「三人」
父さんが答える。
「団長と、あと二人」
母さんは椀の中を見る。豆を匙で押している。豆が崩れる。
俺は汁を飲んだ。温かい。喉を通る。椀の底に干し肉が一切れ残っていた。
食べ終わると、父さんは立ち上がった。袋を持つ。戸を開ける。外の光が少し入る。空はまだ薄い灰色だった。
俺も外に出る。母さんも出る。
家の前の道に霜が残っている。踏むと、しゃり、と音がする。息が白くなる。空気が冷たい。
広場のほうから足音が聞こえた。三人の男が歩いてくる。自警団長と、村の男二人。みんな袋を持っている。槍を背負っている。
父さんはその場で待った。三人が近づく。団長がうなずく。
「時間だ」
父さんがうなずく。
母さんが袋の紐をもう一度結び直す。指が少し震えていた。
「気をつけて」
母さんが言う。
父さんは短く答える。
「戻る」
それだけ言った。
父さんは歩き出す。団長たちと並ぶ。四人の足音が道に続く。
俺はその後ろを見ていた。道は東へ伸びている。王都へ続く道だ。四人の背中が少しずつ小さくなる。
父さんは一度だけ振り返った。手を上げた。すぐ前を向いた。
四人は村の外へ出た。
道の先で見えなくなった。
風が少し吹いた。
霜が溶けた水が土に落ちた。
母さんはしばらくその場に立っていた。
それから家に戻った。
それからしばらく、村の生活は変わらなかった。
畑を耕す。水を汲む。薪を割る。鶏に餌をやる。いつもと同じことをする。
父さんはいない。
でも家は同じだった。
朝、俺は井戸へ行く。
桶を下ろす。水を引く。縄が滑車を回る音がする。
広場では子どもたちが木剣を振る。
バドの声が聞こえる。
乾いた木の音が響く。
母さんは布を縫う。
窓の近くに座る。針を動かす。糸を引く音がする。
夜になると、俺は納屋で紙を見る。
父さんの紙だ。
線。印。矢印。
石を並べる。
動かす。
また並べる。
日が過ぎる。
雪は降らない。
風が冷たい日が続く。
ある日、村に馬が来た。
昼の少し前だった。
広場のほうで蹄の音が聞こえる。速い音。土を叩く音。
俺は水桶を持っていた。音を聞いて広場を見る。兵士が一人、馬に乗っていた。鉄の帽子。灰色の外套。腰に剣。
村長が家から出てくる。兵士の前に立つ。兵士が袋を渡す。村長が受け取る。
広場の空気が変わった。
人が集まる。声は小さい。
俺は桶を地面に置いた。広場に近づく。人の後ろに立つ。
村長が袋を開ける。中から紙を出す。目を通す。顔が動かない。口が固い。
村長はゆっくり顔を上げた。
「……ガルドの件だ」
その名前を聞いて、周りが静かになった。
誰も動かない。
村長が紙を持ったまま言った。
「国境の戦で戦死」
風が吹いた。
広場の砂が少し動く。
村長は続けた。
「遺品は後日届く」
それだけ言った。
誰も声を出さなかった。
俺はその場に立っていた。
足の裏に砂が当たる。靴の中に小さい石が入っているのがわかる。
誰かが母さんを呼んだ。
母さんは広場の端にいた。ゆっくり歩いてきた。
村長が紙を渡す。
母さんは受け取る。紙を見ない。両手で持っている。
しばらくして、母さんはうなずいた。
それだけだった。
数日後、荷車が村に来た。
兵士が二人乗っている。木箱を一つ降ろした。
箱は小さい。
蓋に鉄の留め具がついている。
兵士が言った。
「ガルドの遺品だ」
箱は家の中に置かれた。
卓の上に置かれる。
兵士は頭を下げた。
それから村を出ていった。
家の中は静かだった。
母さんが箱の前に座る。留め具を外す。蓋を開ける。
中には布が入っていた。
その下に斧。父さんの斧だ。柄の傷を見てわかる。
さらに下に、紙の束があった。
古い紙。角が丸い。
俺はそれを見ていた。
父さんが夜に読んでいた紙だ。
母さんは紙束を持ち上げた。
少し見てから、俺のほうへ差し出した。
「……これは、あんたが持ちな」
俺は手を伸ばした。
紙を受け取る。
紙は軽かった。
でも束は厚かった。
俺はそれを胸に抱えた。
紙の端が服に当たる。
家の外で風が鳴った。
屋根板がきしんだ。




