第2話 石板の文字
森の縁は、村の外より温度が低い。木が密だからだ。空が細くしか見えない。枝の隙間から光が斑に落ちて、地面の落ち葉の色がところどころ変わる。
父さんは足を止める回数が多かった。歩く距離はそれほど長くない。でも、十歩くらい進むと一度止まる。耳を傾ける。周りを見る。槍の柄を軽く持ち直す。それを何度も繰り返す。
俺も同じように足を止める。最初はまねしているだけだった。でも、止まるといろいろ聞こえる。風の音。枝が擦れる音。どこかで小さな動物が走る音。靴の底の下で、乾いた枝が折れる音。
森の匂いは湿っている。土の匂い。腐った葉の匂い。きのこの匂い。少しだけ獣の匂いも混ざっている。
父さんは道から少し外れたところでしゃがんだ。手の甲で落ち葉を払う。土の上にまた足跡があった。さっき見たのと似ている。爪のあとが深い。歩幅が広い。
父さんは指で跡をなぞってから、手を上げた。
「戻る」
「もう?」
「増えてる」
俺はもう一度足跡を見た。確かに、さっきより数が多い。いくつかは新しい。縁が崩れていない。湿り気も残っている。
父さんは森の奥を見たまま言った。
「村に近すぎる」
それ以上は言わない。荷車の向きを変える。俺も後ろから押す。帰りは行きより早い。父さんの歩幅が広いからだ。
森の縁を抜けると、空が急に広くなる。風も強い。さっきより少し冷たい。村の屋根が見える。煙が細く上がっている。
村に入ると、広場のあたりに人が集まっていた。いつもより多い。男も女もいる。子どももいる。誰かが大きな声で話している。
父さんはそのまま広場へ向かった。荷車を止めてから、人の輪の外に立つ。俺も隣に立つ。
真ん中には、村長がいた。太い杖を持っている。髭が白い。背は低いけど、声は大きい。
「今日は鑑定の日だ。十歳になった子は前に出ろ」
その言葉で、何人かの子どもが前に出た。俺もその中にいる。バドもいる。もう一人、隣の家のリナもいた。全部で五人。
広場の中央には、石の板が置かれていた。腰の高さくらい。表面は平らに削られている。ところどころに細かい線が刻んである。真ん中には丸いくぼみ。
この石板は村の神殿から借りてくる。毎年一度だけ。子どもの技能を調べるためだ。
村長が杖で地面を叩いた。
「順番に手を置け」
最初はバドだった。バドは胸を張って前に出る。石板の前に立つ。手を置く。少し待つ。
石板の表面に、薄い光が浮かんだ。線が組み合わさって、文字になる。
誰かが声を出した。
「剣技だ」
村長が読み上げる。
「技能。《剣技》」
周りから声が上がる。「さすが団長の息子だ」「やっぱりな」
バドは振り返って、口の端を上げた。肩を回す。腕を見せる。取り巻きの二人が背中を叩いた。
次はリナだった。リナは少し緊張している。手を石板に置く。光が浮かぶ。
村長が読む。
「技能。《薬草知識》」
リナの母親が大きく息を吐いた。「よかったねえ」と言って、肩を抱く。
三人目。四人目。狩りの技能。木工の技能。村の仕事に使えるものばかりだった。周りの大人たちも、うなずきながら見ている。
最後に、村長がこっちを見た。
「レイン」
名前を呼ばれて、前に出る。足の裏が土を踏む。石板の前に立つ。
石板は近くで見ると、表面が少しだけ温かい。日が当たっていたせいかもしれない。手を伸ばす。掌をくぼみに置く。
最初は何も起きない。
少ししてから、光が出た。薄い。細い線が浮かぶ。文字になる。
村長が目を細めた。
「……解析?」
周りから声が出た。
「なんだそれ」
「聞いたことない」
村長がもう一度読む。
「技能。《解析》」
沈黙が少し続く。誰も何も言わない。
取り巻きの一人が笑った。
「何それ」
別の男が言う。
「役に立つのか?」
誰も答えない。村長は眉を寄せたまま石板を見ている。
俺は石板の文字を見ていた。《解析》。四つの字。線がゆっくり消えていく。
後ろで誰かが言った。
「戦えないやつだな」
別の声。
「畑でも使えなさそうだ」
バドが腕を組んでいた。俺を見て、口の端を上げた。
「石でも数えるのか?」
周りで小さく笑いが起きる。
俺は石板から手を離した。掌に少し汗がついている。ズボンの横で拭いた。
村長が杖を突く。
「次」
でも次はいない。五人で終わりだ。
広場の空気が少し変わっていた。さっきまでのざわめきと違う。声はある。でも低い。誰も俺に近づかない。
母さんが人の後ろから出てきた。俺の肩に手を置く。手は冷たかった。
「名前がわかっただけでもいいさ」
母さんはそう言った。声は普通だった。少しだけ早い呼吸をしている。
後ろで、バドの声が聞こえた。
「無能じゃん」
取り巻きが笑う。
広場の石板は、もう光っていなかった。刻まれた線だけが残っている。誰かが布で表面を拭いていた。
俺はもう一度石板を見た。さっき文字があった場所を見た。
何もない。ただの石だった。




