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第1話 辺境の村

 朝は、鐘の音じゃなくて、屋根板のきしむ音で起きることが多い。

 

 その日もそうだった。寝返りを打った拍子に、頭の上で、ぱき、と乾いた音がした。古い板が夜の冷えで縮んで、朝の日差しでまた少し戻る。そのたびに鳴る。もう慣れてる。うちの家は、そういう音がよくする。

 

 目を開けると、天井の木目が見えた。節の黒い丸が三つある。その横に、細いひびが一本走ってる。昨日見たときより少し長く見えたから、あとで母さんに言ったほうがいいなと思った。雨が入ると困る。

 

 毛布を肩まで引き上げたまま、鼻で息を吸う。灰の匂いがした。炉の火はもう起きてる。薪がはぜる軽い音も聞こえる。母さんが先に起きたんだろう。寝床の藁が背中に当たって、服の裾の下でちくちくした。

 

 体を起こす。冷えた空気が首の中に入ってきた。口の中が乾いてる。舌で歯の裏をなぞってから、足を床に下ろした。板が冷たかった。右足の裏に、小さい木のささくれが引っかかった。顔をしかめて、足を少し浮かせる。指で取ろうとして失敗した。あとで外に出る前に抜けばいい。

 

「レイン、起きた?」

 

 仕切り布の向こうから母さんの声がした。鍋のふたが鳴る音も重なる。

 

「起きた」

 

 返事をすると、すぐに「顔洗ってきな」と返ってきた。毎朝同じだ。

 

 立ち上がって、壁にかけてあった上着を取る。肘のところが擦れて薄くなってる。袖を通す。指先がまだ少し動きにくい。寝てるあいだに冷えてたらしい。腰ひもを結んでから、戸口の木の棒を外した。

 

 外に出ると、空気がまっすぐ顔に当たった。冷たい。鼻の奥がつんとした。村の朝はいつもそうだ。山に囲まれてるせいで、日が上がってもしばらく寒い。息を吐くと白くなった。庭の土はまだ固い。霜が薄く乗ってる。踏むと、しゃり、と小さく鳴る。

 

 家の横に置いてある水桶の表面に、薄い氷が張っていた。指先でつつくと、丸く割れて、水が揺れた。手のひらで顔を洗う。冷たすぎて、最初の一杯で目が勝手に閉じた。もう一杯すくって、首の後ろにもかける。背中が縮む。口から変な声が出そうになって、歯を食いしばった。

 

 顔を上げると、村の端まで見えた。うちは少し高い場所にある。家が十数軒。畑がその外に広がって、その先が森。もっと向こうに岩肌の見える山がある。煙突から細い煙がいくつも上がっていた。牛の鳴き声もする。遠くで犬が一回吠えた。誰かが荷車を引いているのか、車輪のきしむ音も聞こえた。

 

 村の名前はルガスっていう。王都からどれだけ離れてるのか、正確な日数は知らない。父さんは昔、王都まで行ったことがあるって言ってたけど、俺は村の外をほとんど知らない。森の端。川べり。見張り台までの道。そのくらいだ。

 

 戸口を閉めて家に戻る。中は外よりましだけど、暖かいってほどじゃない。炉のそばだけだ。母さんが鍋をかき回していた。細い背中が上下してる。肩にかけた布に粉がついてた。たぶん朝のうちに麦を挽いたんだろう。

 

「桶の氷、少し厚くなってた」

 

 俺が言うと、母さんは鍋の中を見たまま「じゃあ今日は昼まで寒いね」と言った。木の匙を鍋の縁で軽く叩く。白っぽい湯気が上がって、干した豆の匂いと塩の匂いがした。

 

 卓の上には、黒パンが三つに切って置いてあった。昨日の残りだ。ひとつは父さんの分で、まだそのままある。父さんは昨夜、見張りで遅かった。たぶんもう外で食ったんだと思う。

 

「父さんは?」

 

「裏だよ。斧研いでる」

 

 その言葉を聞いて、耳を澄ます。確かに、家の裏から、しゃり、しゃり、と石に刃を当てる音がしていた。一定の速さだ。止まらない。父さんの手はそういうとき、いつも同じ速さで動く。

 

 俺はパンをひとつ持って、かじった。固い。前歯で押してから、少し横に引いてちぎる。口の中の水分が持っていかれる。鍋の汁を木椀に入れてもらって、一緒に流し込む。豆は崩れていた。小さく切った干し肉が二切れ入ってた。今日は少しいいほうだ。

 

 母さんは自分の分を食べながら、卓の端に置いた麻袋を見た。袋の口は縛ってある。中身は薬草だ。昨日、俺が森の手前で摘んできた分が入ってる。

 

「朝飯が済んだら、これ、ミラ婆さんのとこに持ってって。腰が痛いって言ってたから」

 

「わかった」

 

「そのあと井戸。桶二つ。帰りに納屋の前の薪も見てきて。細いのが減ってたから」

 

「うん」

 

 そう返しながら、頭の中で順番を並べる。ミラ婆さんの家は東側。井戸は広場の横。薪置き場はうちの裏。無駄に何度も往復すると時間がかかる。まず薬草を持って東側に行く。帰りに広場の井戸で水を汲む。水を家に戻したあと、裏で薪。そうすればいい。別に大したことじゃない。いつもそうやって考える。

 

 母さんは俺の顔を見て、「また順番考えてるでしょ」と言った。

 

「考えたほうが早いし」

 

「そういうとこ、あんたは昔からだね」

 

 母さんはそう言って、椀を置いた。言い方は軽い。でも、目の下には薄く影がある。昨夜も遅くまで繕い物をしてたはずだ。指先も赤くなってる。布を引く仕事は手が荒れる。

 

 鍋を空けてから、俺は麻袋を持って外に出た。日が少し上がっていた。霜はまだ残ってるけど、屋根の端から落ちるしずくが土に黒い点を作っている。道は踏み固められていて、ところどころに乾いた獣糞があった。避けながら歩く。靴の底が薄いから、踏むと形がわかる。

 

 村の中を歩くと、いろんな音が近くなる。鶏が羽をばたつかせる音。木戸を開ける音。鍬の先が石に当たる音。誰かが子どもを呼ぶ声。洗濯物をはたく音。朝はみんな手を動かしてる。止まってる人は少ない。

 

 ミラ婆さんの家の前まで来ると、戸が少し開いていた。中から薬草を煮る匂いがする。俺が戸板を二回叩くと、「入んな」としゃがれた声が返ってきた。

 

 中は暗かった。窓が小さい。炉の火も弱い。ミラ婆さんは椅子に座って、毛布を膝にかけていた。腰が曲がってる。足元に湯たんぽ代わりの焼き石があった。

 

「母さんから。昨日のやつ」

 

 俺が袋を差し出すと、婆さんは皺だらけの手で受け取った。指の節が太い。爪の間に土が入ってる。

 

「悪いねえ。お前んとこも余裕ないだろうに」

 

「母さんが、乾かしすぎる前に使ったほうが効くって」

 

「そりゃそうだ」

 

 婆さんは袋の口を開けて中を見た。乾いた葉が擦れて、かさ、と音がした。

 

「レイン、お前、背ぇ伸びたか」

 

「たぶん」

 

「たぶんじゃわからん」

 

 そう言って婆さんは笑った。歯が少ないから、口の端が少しへこむ。俺は曖昧にうなずいて、家を出た。

 

 広場へ向かう道で、見張り台が見えた。村の西側の土塁のそばに立ってる、粗い木組みの台だ。父さんがあそこで夜番をすることが多い。今は誰も上にいない。代わりに、台の下で父さんが誰かと話していた。自警団のひとりだ。二人とも槍を立てている。父さんの腰には斧。肩に革の胴着。遠目でも姿勢でわかる。

 

 俺は少し足を止めた。父さんはこっちに気づかなかった。相手の男が何か言って、父さんが短く返す。口数は多くない。顎で森のほうを示していた。狼でも出たのかもしれない。最近、森の縁で家畜が荒らされたって話を聞いた。

 

 広場の井戸には、すでに三人並んでいた。縄が滑車を回る音がきしきし響く。水桶が井戸の壁に当たって、こつ、こつ、と鈍い音を立てる。俺は空の桶を二つ下ろして列の後ろに立った。

 

 前にいたのは、バドと、その取り巻きの二人だった。バドは自警団長の息子で、俺より一つ上だ。肩幅が広い。腕も太い。朝から木剣を背負ってる。井戸に水を汲みに来たのか、ただうろついてるのか、よくわからない。

 

 こっちに気づくと、バドは口の端を上げた。

 

「お、レインじゃん。今日は一人で水汲みか」

 

「見ればわかるだろ」

 

 答えると、取り巻きの片方が鼻で笑った。

 

「朝から機嫌悪いな」

 

 別に機嫌が悪いわけじゃない。でも、ここで何か言うと面倒になる。だから桶の縄を見た。前の女の人が桶を引き上げている。腕に筋が出てる。水は重い。冬は特に手が切れる。

 

 バドは俺の桶をつま先で軽く蹴った。木が石畳に当たって、がた、と鳴る。

 

「お前んとこの屋根、また鳴ってたな。今にも潰れそうだ」

 

「平気だよ」

 

「へえ」

 

 また蹴ろうとしたから、桶の持ち手を先に押さえた。バドの靴先が木に当たって止まる。俺の手の甲に少し泥がついた。

 

「壊れたら困る」

 

 俺がそう言うと、バドは肩をすくめた。

 

「そりゃ困るな。直す金もないもんな」

 

 取り巻きが笑う。井戸のそばにいた女の人が少しだけこっちを見た。でも何も言わない。すぐに視線を戻した。みんな朝は忙しい。いちいち他人の揉めごとに口を出さない。

 

 自分の順番が来た。縄を掴む。麻縄は手にざらつく。桶を下ろす。水面に落ちる音が下から返ってくる。少し待ってから引く。重い。肩が上がる。腕だけだときついから、腰を後ろに引いて体ごと使う。滑車が鳴る。水のしずくが飛ぶ。二杯目まで終えるころには、手のひらに赤い筋が出ていた。

 

 桶を持ち上げたとき、見張り台のほうで短く笛が鳴った。みんな少しだけ顔を上げた。見張りの交代か、森側で何か見えたか。その程度の合図はいくらでもある。父さんの姿は見えなかった。

 

 桶を二つ下げて家に戻る。水が縁から揺れてこぼれる。歩幅を変えると余計に揺れるから、同じ幅で歩く。肩に力が入る。腕が伸びる。家の前に着くころには、指先の感覚が少し鈍くなっていた。

 

 桶を中に運ぶと、母さんがすぐに片方の水を鍋へ入れた。もう片方は木樽に移す。俺はそのまま裏へ回る。薪置き場の前には、細い枝束が三つ。太い薪が七本。昨日より減ってる。今夜ぶんを考えると少ない。斧台の横には、父さんが研いでいた砥石が濡れたまま置かれていた。

 

 そこへ、父さんが戻ってきた。土を踏む足音でわかった。振り返ると、肩に朝露がついている。髭に白いものが少し混じってた。年のせいか、冷えのせいかは知らない。

 

「水は済んだか」

 

「済んだ。ミラ婆さんにも届けた。薪、細いのが減ってる」

 

 父さんは薪の山を一目見て、「昼に割る」と言った。腰の斧を外して、軒に立てかける。刃には油が薄く塗ってあった。俺が見ていると、父さんはこっちを向いた。

 

「今日は見張りの上がりが遅くなるかもしれん」

 

「森?」

 

「ああ」

 

 父さんはそれだけ言った。詳しくは話さない。たぶん、まだはっきりしてないんだと思う。こういうとき、父さんは決まってることしか口にしない。

 

「狼?」

 

「足跡が増えてる」

 

 俺は地面を見た。昨日の雨跡はもう乾いてる。なら、新しい足跡は残りやすいはずだ。

 

 父さんは俺の視線を追ってから、短く息を吐いた。

 

「お前は気にしすぎる」

 

「見えるから」

 

「見えても、一人で森に入るな」

 

「入らないよ」

 

 そう言うと、父さんは一度だけうなずいた。それから薪を一本持ち上げて重さを確かめ、また戻した。腕の血管が浮いていた。

 

 昼前になると、日差しが少しだけ強くなった。屋根の霜は消えた。泥道はやわらかくなって、靴底に少しつく。母さんは布を干し、俺は薪を割る父さんのそばで細枝を束ねた。斧が振り下ろされるたびに、木が裂ける音が出る。乾いたものは高い音がする。湿ったものは鈍い。割れ目の白さでもわかる。

 

 村の外れのほうから、子どもたちの声が聞こえた。木剣の打ち合う音も混じる。たぶんバドたちだ。父さんはそっちを見ない。俺も見ない。束ねた枝を縄で締めて、壁際に積んだ。

 

 昼の飯を食うころ、空の色が少し変わった。青の中に薄い灰色が混じってきた。風が出て、家の横の古布が揺れた。父さんは椀を置いてから、扉の外を見た。

 

「今夜は冷えるな」

 

 母さんが小さく「薪、足りるかね」と言った。

 

「足りなきゃ足す」

 

 父さんの返事は短い。母さんはうなずいて、残りの汁を鍋からさらった。

 

 食後、俺は納屋に入って、使い古しの麻袋を探した。壁際の箱の中には、縄切れ、釘の曲がったやつ、革ひも、欠けた木椀、折れた鏃なんかが入ってる。父さんは何でもすぐには捨てない。直せるものは直して使う。俺もその癖がうつってる。

 

 納屋の奥に、小さい木箱がある。ふたに傷が何本も入ってる。父さんの持ち物だ。勝手に開けるなとは言われてない。でも、毎回少しだけ手が止まる。その日も止まった。少し迷ってから、ふたを開けた。

 

 中には、古い紙束が入っていた。角が丸くなっていて、ところどころ茶色く染みてる。父さんがたまに夜に読んでるやつだ。字は全部は読めない。でも図は見える。線が引いてあって、小さい印が並んでる。丘。川。道。陣の形。俺は一枚をそっと持ち上げた。紙は乾いていて、曲げると折れそうだった。

 

 外から、父さんの声がした。

 

「レイン」

 

 びくっとして、紙をすぐ戻す。ふたを閉める。木の板が小さく鳴った。

 

「今行く」

 

 外に出ると、父さんは荷車のそばに立っていた。空の袋と、短い槍が二本積んである。

 

「森の手前まで行く。ついて来い。荷を持つ手がいる」

 

「わかった」

 

 母さんが戸口から顔を出した。「日が落ちる前には戻っておいで」と言う。父さんが「そのつもりだ」と返す。

 

 俺は荷車の取っ手を持った。木が掌に当たる。少しざらついてる。父さんが前を歩き、俺が後ろから押す。村の外へ出る道は、轍が二本、固くついている。その間に草が伸びてる。踏むと湿っていた。

 

 家並みが後ろに下がる。畑の土は掘り返された跡が黒い。風が土の匂いを運ぶ。遠くで鴉が鳴いた。森は近くで見ると、朝より暗く見える。枝が重なって、中のほうは日が届きにくい。

 

 父さんは途中で一度しゃがんだ。地面を指でなぞる。俺も横にしゃがむ。土の上に、浅い跡がいくつかあった。爪のあと。丸い肉球。俺の手のひらくらいの大きさ。

 

「狼?」

 

 俺が聞くと、父さんは首を横に振った。

 

「犬より大きい。群れだ」

 

 足跡は一つじゃなかった。重なってる。新しいのと古いのがある。道を横切って、森のほうへ入っていた。俺はその向きを見た。村の見張り台からだと、この辺りは木で半分隠れる。

 

 父さんは立ち上がって、周囲を見た。風の向き。木の揺れ。音。俺もまねして耳を澄ます。枝が擦れる音の下に、何かが動く気配はなかった。でも、気配がないことと、何もいないことは同じじゃない。

 

「帰ったら、自警団長に言う」

 

 父さんはそう言って、荷車をまた引き始めた。

 

 俺は後ろから押しながら、さっきの足跡を思い返していた。数。向き。重なり方。村までの距離。見張り台から見える範囲。もしあれがもう少し増えたら、どこを通るか。どの柵が近いか。頭の中で順番に並べてみる。まだ確かなことは何もない。でも、形は見える。小さくても、見えるものはある。

 

 森の縁に着くと、土の匂いが濃くなった。湿った葉の匂いもする。父さんは槍を一本俺に渡した。穂先は布で巻いてある。切っ先を守るためだ。重さが手に乗る。木の柄は冷たい。

 

「手を離すなよ」

 

「うん」

 

 返事をして、俺は槍を持ち直した。掌の汗で柄が少し滑った。握り直す。喉の奥が乾いて、唾を飲み込む音が自分でも聞こえた。

 

 父さんが先に一歩、森の影へ入る。俺も続く。頭の上で、枝が風に鳴った。村の音はもう背中のほうに遠くなっていた。

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