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キャンバスの上の陽だまり

作者: ゑの猫
掲載日:2026/02/18

 それは、一つの依頼が発端だった。


 パレットを片手にキャンバスの上で筆を走らせる私の生活は、いつも他者からの評価と価値観に大きく左右される。

 変化し続け不安定、影を孕んだ雲の隙間から溢れ落ちる日光を探し続けるような暮らしが、この絵の具の香りに満ちた部屋の全て。だからこそ。

 だからこそ、こんなことは初めてだった。

 キャンバスを挟んで向こうの椅子に座るのは一人の男。

 目深にかぶっていたハンチング帽を脱ぎ、唐草の癖が見える短い髪。労働者らしく褪せた日焼けを下地に目や口の切れ込みがくっきりと入り、高い鼻が顔の中心に鎮座している。服はどうも最近買ったものではないらしい。襟元によれのあるシャツとベスト、座ったせいで踝の見えるスラックスと、土で薄汚れた靴を着用していた。

 この男が私の目の前で椅子に座るのは、今回で三回目。キャンバスにはラフと下描きまで完成している。

 胸から上の肖像画。難しい構図ではない筈だ。

 しかし。


「やはり違う」


 眉間に皺を寄せ首を傾げる私に、男は一瞬驚いてから、困ったように肩を竦ませた。

 成人男性である筈の男の、バツの悪そうな表情が腹立たしい。……いや、これはこんなことにも対応できない私の実力への怒りに近いのだろうが。


「何故あの時の依頼人が来ない? 私が何か無礼をしてしまったか」


 萎縮させるのが目的ではないため静かに問う。相手は首を横に振る。沈黙が床を這っていく。

 三回目でこれとは、私の暮らしより先が見えない。

 溜息にすら首を縮ませる始末だ。どうにも話が進まなかった。


「画家の方、申し訳ありません。何をしても出て来てくれないのです」


 そう話すのは男と共にこの部屋に入って来た子供。若々しい肌に同じく労働者らしい日焼けをした、小柄な男児。この子供も今回で二回目の来訪だ。キャンバスとは少し離れた椅子に腰掛け、小さく足を遊ばせている。

 依頼人が出て来ない。けれど依頼人である筈だった男本人はここに居る。

 私はまた小さく、溜息を吐いた。


 話を男の一回目の訪問時に戻そう。その時の男は快活で、日焼けが健康的に見える程にハキハキとものを言う態度だった。注文もシンプルに、似顔絵を描いて欲しいと金も支払われ、決して裕福な訳ではない私に断る理由は無く引き受けのだ。

 この日は一時間キャンバスを挟んで向かい合い、大まかなラフで男の顔の特徴を掴んだ。

 二回目の訪問、男は子供を連れて来た。子供に仕事部屋を荒らされてはかなわない、と失礼を承知で説明するが、男は前回と打って変わって鋭い目付きで睨んでくる。気が立っているのか言葉尻が荒く、子供が一言「やめてお父さん」と言うとやっと落ち着いた。子供が深々と私に頭を下げる光景で、私は男の未熟さに同じくらい深々と呆れ果てたのだった。

 子供と男を部屋に入れ、またキャンバスを間に差し込み向かい合う。が、どうも前回描いたラフと合わない。輪郭や大まかな髪型は変わっていないのに顔が違う。目尻はつり上がり、口角も噛み締めたように下がって皺が濃くなっている。鼻翼も少し膨らんで傲慢な印象、別人でも連れてこられたのかと訝しんで子供に問うが、答えは否定。あの注文してきた男と同一人物だと言う。

 はてさて困った。私からしてみれば、作品は依頼人の注文に沿わねばならない。こんな状態の男を描いて、「依頼人の注文」を達成とは私には言えなかった。

 私は元々いつ仕事と金が尽きて死が迫るか分からない身。この世に残すキャンバスの上で汚点を作るわけにはいかないのだ。この日は早めに切り上げ後日改めて訪問願うことにした。


 そして、これが三回目。

 医者ではないから詳しいことは分からないが、この男の内には複数の性格が混在しているようだ。労働と育児と、度重なるアルコール摂取の弊害だろう。

 益々子を成していい男ではない。この男に足を開いた女も同罪だ。反吐が出る。

 絵の依頼をするくらいだ、スラム街の中では金を作れる人間と推測はするが、どうにも人間としては私と相容れない。さっさと終わらせてしまおう。

 おどおどと眉尻を下げ椅子の上で縮こまる男の横で、子供は言う。


「お父さんは病気なのです」

「分かっている。脳の内の病気だろう」

「ええ。それと、ここも」


 子供は男の胸を指差した。

 心臓の位置。なるほど、依頼はそのためか。


「注文時の依頼人を描く仕事だと思っていたが、些か誤謬だったか。君、好ましい父親の態度はどれなのだ」

「そうですね、いつも笑っていて、他の人と話すのが好きで、よく大人達と飲み歩いて────」

「ああ、違う。すまない」


 子供の言葉を遮り、私は言葉を選ぶ。


「周りの人間ではなく、君の。……君の、安心する父親の顔を教えてくれ」


 咳払いする私の顔を見つめる子供の目は、ガラス細工のように透き通っていた。窓ガラスから入る日光を増幅させた眩い反射光が、余すことなく私に注がれ、私はそれに変に重苦しく胸を押された。





「仕事は終わった。金は貰っているから持って行くといい」

「ありがとうございました」


 また深々と下げられた頭が奥に見えたのを最後に、閉じられたドアが音を立てる。

 結局、あの快活な態度は二度と私の前に現れなかった。お陰で子供との会話の方が多かった気すらする。

 あまり大きくないキャンバスサイズに、持ち運びでもするのかとは思っていたが……いやはや、とんでもない自己満足に巻き込まれたものだ。

 自分の子供に何かを残したいと思う心は尊重しよう。しかし、本人があれではな。

 これから子供に降りかかる苦労を考えると、やるせない気持ちになる。


 ……が、面白い発見もあった。

 文字通り様々な顔を見せる男の膝に、子供が腰掛けると男の表情が安定した。

 警戒をあらわにしていても、不安をあらわにしていても、その胸に小さな命が擦り寄るだけである一つの顔に落ち着いたのだ。

 柔らかく暖かな表情。私はその姿をキャンバスへ映し子供に手渡した。

 結局親子二人分の顔を描くことになったが、顔が変わるより余程良い。金だって追加で貰う程の労力でもなかったのが幸いだった。

 子供への愛情というのは、ああも顔つきを変えるものなのか。私も子を持てば分かるのかも知れないが、部屋を荒らされるのは御免蒙りたい。ありもしない夢物語はここまでにしよう。

 窓から外を見渡した。

 あの親子が、布に包まれたキャンバスを持って歩いているのが見える。背を丸める男のみすぼらしさのせいで、子供の真っ直ぐ伸びた背中がやけに眩しい。コントラストが芸術的と言えば聞こえはいいが、あんなものの表現は政治好きの画家達にでも任せるとしよう。


 溜息を吐きながらふと見上げた空には、暗い雲の隙間から暖かな日光が漏れていた。

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