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海軍モノ

駆逐艦の数奇な運命

作者: 仲村千夏
掲載日:2026/01/24

 造艦中止の通達は、進水式の三日前に出た。


 トーアル帝国海軍省からの文書は、簡潔で、感情を挟む余地のないものだった。

 試作大型駆逐艦建造計画は中止。二番艦以下の起工は行わない。すでに完成間近の一番艦については、計画通り進水・艤装を継続する――それだけが書かれていた。


 式典の準備は止まらなかった。

 止められなかった、という方が正しい。


 造船所の船台に据えられたその艦は、四隻並ぶはずだった計画の最初で、そして最後の一隻になった。艦名ヴァンダン。設計者が、ほとんど仮符号のように付けた名だと聞いている。


 進水式当日、来賓の数は予定より明らかに少なかった。

 海軍上層部の席は埋まっていたが、視線はどこか距離を保っている。祝意というより、確認に来た、という空気だった。


 艦は、静かに水に滑り込んだ。


 拍手は起きた。

 だが、それは義務としての音に近かった。


 艦長に内定していた男――まだ正式辞令は出ていない――は、やや後方からその様子を見ていた。軽巡洋艦での勤務が長い。進水式の空気には慣れている。だからこそ、違和感もはっきりと分かった。


 これは期待されていない艦の進水式だ。


 式が終わり、人の流れが散る頃、彼は艦に上がった。最終艤装の最中で、内部はまだ整然とはしていない。配線が露出し、機材が仮固定のままの区画も多い。


 それでも、艦の輪郭ははっきりしていた。


 平甲板の船体は幅に余裕があり、駆逐艦としては安定感がある。上構も低く抑えられ、指揮所の視界は広い。主砲は連装十二・七糎砲が四基、前後に無理のない配置で据えられている。


 ――駆逐艦、ではないな。


 それが、最初に浮かんだ評価だった。


 艦橋は軽巡に近い感覚で使える。情報の集約と指揮の動線が整理されている。将来の電子装備を前提とした余白も多い。魚雷発射管は四連装が二基。数だけ見れば多くはないが、配置は現実的だった。


 だが、そのすべてが「重い」。


 重量ではない。思想が、だ。


 この艦は、あれもこれも背負わされている。砲戦、雷撃、対潜、護衛、指揮。どれか一つに特化することを、最初から拒んでいる。


 士官たちの評価も割れていた。


 「中途半端だ」

 「駆逐艦にしては大きすぎる」

 「軽巡の代わりにはならない」


 そういう声がある一方で、


 「嵐に強い」

 「艦隊の前に立たせやすい」

 「護衛任務には向いている」


 そんな意見も、確かに存在した。


 艦長はそれらを聞きながら、判断を保留した。

 試作艦というのは、常に評価が先に来る。実績は、後から付いてくる。


 最終艤装が進む中、国際情勢は日に日に悪化していた。

 近隣諸国との衝突は、すでに「紛争」という言葉で報じられている。限定的、局地的、制御可能――そうした修飾語が、ニュースの冒頭には必ず付いた。


 だが報告の頻度は増えていた。


 小競り合い。警告射撃。拿捕。

 海図の上に、目立たない赤線が一本、また一本と引かれていく。


 それでも、軍令部からの命令は来ない。


 《ヴァンダン》は、あくまで完熟航海を予定された試作艦だ。

 性能を確認し、運用データを集める。それ以上でも以下でもない。


 艦長はそれを理解していた。理解しているからこそ、落ち着いていた。


 この艦は、まだ戦争を知らない。

 そして、おそらく――戦争に最適化されてはいない。


 だが、海に出れば分かる。


 完熟航海の出港命令が出たのは、曇天の朝だった。

 艦はゆっくりと岸壁を離れ、港外へ向かう。


 無線には、また新しい衝突の報が流れていた。

 それでも命令はない。


 《ヴァンダン》は、ただ予定通りに進む。


 この艦が、何者であるのか。

 それを決めるのは、まだ先の話だった。


 完熟航海は、静かに始まった。


 出港三日目、艦は定められた航路を保ち、外洋を進んでいる。速力は抑えられているが、船体はなお軽く震え続けていた。平甲板式の船体は波をよく受け、艦首が上下するたび、鋼板が低く鳴る。


 新造艦特有の軋みだった。


「主機は安定している。だが、余裕は少ないな」


 機関長の報告を、艦長は艦橋で聞いていた。蒸気圧、回転数、燃料消費。数字は基準内だが、設計通りに動いているとは言い切れない。配管の継ぎ目からは、微かな蒸気漏れが見つかっている。


 艦橋の設備は簡素だった。測距は光学式、射撃指揮は機械式。複雑な歯車とカムで構成された装置は、湿気と振動に弱く、定期的な再調整が欠かせない。


「測距、誤差あり。再測定します」


 報告は、測距室から伝声管を通じて届く。金属の管を震わせる声は、時に歪み、聞き返しが必要になる。


「了解。繰り返せ」


 艦長は即答した。人を介し、声で繋ぐ。これがこの艦の戦い方だった。


 兵装は割り切られている。砲は主砲塔のみ、連装十二・七糎砲が四基。砲戦にすべてを賭ける配置だ。対空は機銃のみで、数も多くはない。高角砲も、副砲もない。


「攻撃も防御も、全部主砲と人間次第だな」


 砲術長の言葉に、誰も反論しなかった。装填は半自動、照準は目と経験。射撃計算は計算尺と暗算だ。最新鋭などと呼ばれてはいるが、実際のところ、頼れるのは乗員の熟練だけだった。


 魚雷発射管は四連装が二基。こちらも新設計で、実射は行われていない。照準は光学式、発射諸元は艦内で手計算される。


「雷撃は切り札だ。使う時は、もう逃げ場がない時だな」

 副長が低く言った。


 通信は不安定だった。無線機は初期型で、真空管の調子は一定しない。雑音に埋もれた電文を、通信士が必死に拾い上げる。


「……周辺国、衝突……事態、流動的……」


 断片的な情報だけが届く。世界がきな臭くなっていることは分かるが、具体像は掴めない。


 艦内の指揮伝達は、伝声管と伝令が主だ。艦橋から各部署へ、人の声と足で命令が運ばれる。時間はかかるが、確実だ。電話はあるが、信頼しきれるものではない。


「この艦は、情報が遅れる」

「だが、判断は速い」


 艦長はそう言った。軽巡での経験が、自然とそう言わせた。情報が完璧に揃うのを待つ艦ではない。揃わない前提で動く艦だ。


 夜、艦内は暗い。灯火は最小限、通路には赤い非常灯が点る。油と金属の匂いが混じる中、整備兵たちが無言で機器を点検していた。


 無線室では、また真空管が一本、寿命を迎えていた。


「今のうちで良かったな」

 艦長の言葉に、通信士は小さく頷いた。


 翌朝、軍令部からの電文が届く。


「状況注視。完熟航海継続。行動変更なし」


 命令ではない。

 だが、命令の前触れだった。


 艦は進む。未完成で、不安定で、癖だらけのまま。

 それでも、この艦が試される日が近いことを、誰もが感じていた。


 完熟航海とは、艦を慣らすためのものではない。

 人間が、この艦に慣れるための時間なのだと――艦長は静かに思った。


 異変は、音より先に、違和感として現れた。


 夜明け前、海は凪いでいた。完熟航海も折り返しに差し掛かり、艦内の空気はどこか緩んでいる。艦長は艦橋で、いつものように双眼鏡を首から下げ、暗い水平線を眺めていた。


 そのとき、伝声管が低く鳴った。


「通信室より艦橋。無線、微弱信号を受信。発信元不明」


「内容は」


「断片的です。位置情報らしき数字と、……救難信号の可能性」


 艦長は一瞬、目を閉じた。無線の精度は信用できない。真空管は気まぐれで、雑音が意味を持つことも、その逆もある。


「復唱させろ。記録も取れ」


「了解」


 副長が艦橋の隅で腕を組む。


「救難なら、中立義務に抵触しますか」

「状況次第だ」


 艦長は即答した。完熟航海中であっても、人命救助は優先される。しかし、この海域は紛争当事国に近い。救難信号そのものが、罠である可能性もあった。


 数分後、見張員の声が上がる。


「艦影、右舷前方! 距離……不明、低いシルエットです!」


 艦橋が一気に引き締まった。夜明けの薄光の中、黒い影が海面に浮かんでいる。双眼鏡越しに見るそれは、小型艦――駆逐艦級に見えた。


「国籍は」

「識別灯、確認できません!」


 艦長は測距儀を覗く。距離は遠い。だが、近づいている。


「主砲、待機。装填は行うな」

「主砲、待機!」


 命令は伝声管を通じて砲塔へ伝えられる。金属を震わせる声が、艦内を走る。人が走る音も重なる。


 無線がまた唸った。


「……救難……機関損傷……」


 断片だが、意味は明確だった。


「副長、針路をわずかに寄せる。速力は維持」

「了解。だが、相手が武装していた場合――」

「その時は、その時だ」


 相手艦との距離が縮む。双眼鏡越しに、砲身らしき影が見えた。こちらを向いているかどうかは分からない。


 艦長は一瞬、ためらった。この艦は試作艦だ。電子機器は初期型、故障も多い。主砲は強力だが、指揮系統は脆い。戦闘になれば、不利は否めない。


 だが、退く理由もなかった。


「識別信号、送れ」

「光でですか?」

「ああ。無線は信用できん」


 信号灯が瞬き、暗号が海に投げかけられる。しばらくして、相手艦からも光が返ってきた。


 読めない。

 規格が違うのか、途中で乱れているのか。


「国籍不明のままです」

「……そうか」


 そのとき、相手艦の動きが変わった。針路をこちらに寄せてくる。逃げる様子はない。


 艦橋の空気が張り詰める。


「主砲、装填準備」

 艦長は静かに言った。

「撃つな。だが、いつでも撃てるようにしろ」


 伝声管が鳴り、砲塔から返答が来る。人の声だ。機械音ではない。


 距離、さらに縮小。


 相手艦から、再び光信号。今度は、短い。


「……停船要求、の可能性があります」

 信号員が言う。


「こちらは?」

「こちらに停船命令を出す権限はありません」

 副長が即座に返す。


 軍令部からの命令はない。交戦規定も曖昧だ。この海域は、法と現実の境界にある。


 艦長は決断した。


「減速はしない。針路維持」

「了解」


 試すなら、試せ。

 この艦が、どこまで通用するか。


 数秒後、相手艦の砲口に、はっきりと火が見えた。


「閃光――!」


 艦長は叫ぶより早く、動いていた。


「回避運動! 右舵一杯!」

「主砲、警告射!」


 命令が走る。人が走る。艦が傾く。第一斉射が、海面を叩いた。命中ではない。だが、十分に意志を示す一撃だった。


 相手艦の砲弾は、海面に落ちた。距離は近い。


「これ以上は――」

 副長が言いかける。


「踏み込む」


 艦長は言い切った。


「この艦は、もう試作じゃない。引き金を引いたのは、向こうだ」


 第二斉射。今度は、相手艦の進路前方に弾着。相手は明らかに動揺した。針路を変え、距離を取る。


 数分後、海には再び静けさが戻った。


 無線が唸る。

 今度は、はっきりした電文だった。


「状況報告を求む。詳細至急」


 軍令部だ。


 艦長は、深く息を吸った。


「副長、事実をそのまま送れ」

「……了解」


 《ヴァンダン》は、生き残った。

 そして、もう元の場所には戻れない。


 完熟航海は、その瞬間に終わったのだ。


 ーー


 港は静かだった。


 《ヴァンダン》が帰投したのは、完熟航海の予定日より二日早い。桟橋に人影は少なく、出迎えの楽隊もない。ただ、憲兵と将校が数名、無言で待っていた。


 艦長は舷側に立ち、上陸の号令を待つ。その間にも、艦内では既に書類が動き始めている。戦闘詳報、航海日誌、無線受信記録。すべてが、後の判断材料になる。


 ――撃ったのは、正しかったのか。


 艦長は自問する。だが答えは、とうに出ていた。あの場で退けば、艦も乗員も、もっと悪い形で歴史に名を残しただろう。


 会議室は、予想より狭かった。


 長机を挟んで、軍令部、外務省、造艦局の代表が並ぶ。制服と背広が混在し、空気は張りつめている。


「では、艦長。事実関係を」


 求められたのは意見ではない。判断でもない。ただの事実だ。


 私は立ち上がり、帽子を抱えたまま話し始めた。


「完熟航海中、未明に不明艦を視認。無線にて救難信号と思しき断片を受信。識別信号は不成立。相手艦が接近し、砲口をこちらに向けたため、警告射を実施しました」


「先に撃ったのは、相手と?」


「はい。着弾は至近でした」


 嘘はない。脚色もない。ただ、こちらが“踏み込んだ”部分は、事実として淡々と述べた。


 質疑は長引いた。

 なぜ回避しなかったのか。

 なぜ無線を信用しなかったのか。

 なぜ主砲を装填したのか。


 私は、そのたびに答えた。


 ――それが、この艦の限界だったからだ。


 電子機器は初期型で、無線は不安定。識別は光学頼み。情報が揃うのを待てば、先に撃たれる距離だった。判断は艦長に集中する設計だ。逃げる余地は、最初からなかった。


 沈黙が落ちる。


 やがて、外務省の男が口を開いた。


「相手国は、我が国の艦艇が威嚇行動を取ったと主張しています。ただし、交戦の証拠は曖昧だ」


 軍令部の将官が続ける。


「こちらとしては、“偶発的接触”として処理したい。試作艦であり、正式配備前だった点も考慮材料になる」


 私は、その言葉に微かな違和感を覚えた。


 ――試作艦。


 確かにそうだ。四隻計画の一番艦。未完成。問題だらけ。だが、あの夜、海の上で、この艦は確かに“戦艦”だった。


「艦長」

 造艦局の技師が、こちらを見る。

「あなたの判断で、この艦は生き残った。それだけは、否定できません」


 会議は結論を出した。


 公式発表はこうだ。

 《ヴァンダン》は完熟航海中、識別不能艦と遭遇。相互に警戒行動を取ったが、交戦には至らず。外交ルートにて抗議を行い、事態は沈静化。


 真実は、書類の隙間に押し込められた。


 造艦計画は正式に中止。

 二番艦以降は、設計段階で凍結。

 だが、《ヴァンダン》は残る。


 理由は単純だ。


 ――もう、使ってしまったから。


 私は艦に戻る。桟橋から見上げた船体は、以前より大きく見えた。傷はない。だが、確実に何かが変わっている。


 この艦は、もう「可能性」ではない。

 結果だ。


 設計者の名を冠したこの艦が、どこまで行くのか。

 それを決めるのは、もう政治ではない。


 少なくとも、次に砲を撃つとき、誰も「試作艦だから」とは言わないだろう。


 私は帽子を被り直し、艦橋へ向かう。


 《ヴァンダン》は、今日も命令を待っている。

 そして、世界のほうが――この艦を必要とし始めていた。

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