駆逐艦の数奇な運命
造艦中止の通達は、進水式の三日前に出た。
トーアル帝国海軍省からの文書は、簡潔で、感情を挟む余地のないものだった。
試作大型駆逐艦建造計画は中止。二番艦以下の起工は行わない。すでに完成間近の一番艦については、計画通り進水・艤装を継続する――それだけが書かれていた。
式典の準備は止まらなかった。
止められなかった、という方が正しい。
造船所の船台に据えられたその艦は、四隻並ぶはずだった計画の最初で、そして最後の一隻になった。艦名。設計者が、ほとんど仮符号のように付けた名だと聞いている。
進水式当日、来賓の数は予定より明らかに少なかった。
海軍上層部の席は埋まっていたが、視線はどこか距離を保っている。祝意というより、確認に来た、という空気だった。
艦は、静かに水に滑り込んだ。
拍手は起きた。
だが、それは義務としての音に近かった。
艦長に内定していた男――まだ正式辞令は出ていない――は、やや後方からその様子を見ていた。軽巡洋艦での勤務が長い。進水式の空気には慣れている。だからこそ、違和感もはっきりと分かった。
これは期待されていない艦の進水式だ。
式が終わり、人の流れが散る頃、彼は艦に上がった。最終艤装の最中で、内部はまだ整然とはしていない。配線が露出し、機材が仮固定のままの区画も多い。
それでも、艦の輪郭ははっきりしていた。
平甲板の船体は幅に余裕があり、駆逐艦としては安定感がある。上構も低く抑えられ、指揮所の視界は広い。主砲は連装十二・七糎砲が四基、前後に無理のない配置で据えられている。
――駆逐艦、ではないな。
それが、最初に浮かんだ評価だった。
艦橋は軽巡に近い感覚で使える。情報の集約と指揮の動線が整理されている。将来の電子装備を前提とした余白も多い。魚雷発射管は四連装が二基。数だけ見れば多くはないが、配置は現実的だった。
だが、そのすべてが「重い」。
重量ではない。思想が、だ。
この艦は、あれもこれも背負わされている。砲戦、雷撃、対潜、護衛、指揮。どれか一つに特化することを、最初から拒んでいる。
士官たちの評価も割れていた。
「中途半端だ」
「駆逐艦にしては大きすぎる」
「軽巡の代わりにはならない」
そういう声がある一方で、
「嵐に強い」
「艦隊の前に立たせやすい」
「護衛任務には向いている」
そんな意見も、確かに存在した。
艦長はそれらを聞きながら、判断を保留した。
試作艦というのは、常に評価が先に来る。実績は、後から付いてくる。
最終艤装が進む中、国際情勢は日に日に悪化していた。
近隣諸国との衝突は、すでに「紛争」という言葉で報じられている。限定的、局地的、制御可能――そうした修飾語が、ニュースの冒頭には必ず付いた。
だが報告の頻度は増えていた。
小競り合い。警告射撃。拿捕。
海図の上に、目立たない赤線が一本、また一本と引かれていく。
それでも、軍令部からの命令は来ない。
《ヴァンダン》は、あくまで完熟航海を予定された試作艦だ。
性能を確認し、運用データを集める。それ以上でも以下でもない。
艦長はそれを理解していた。理解しているからこそ、落ち着いていた。
この艦は、まだ戦争を知らない。
そして、おそらく――戦争に最適化されてはいない。
だが、海に出れば分かる。
完熟航海の出港命令が出たのは、曇天の朝だった。
艦はゆっくりと岸壁を離れ、港外へ向かう。
無線には、また新しい衝突の報が流れていた。
それでも命令はない。
《ヴァンダン》は、ただ予定通りに進む。
この艦が、何者であるのか。
それを決めるのは、まだ先の話だった。
完熟航海は、静かに始まった。
出港三日目、艦は定められた航路を保ち、外洋を進んでいる。速力は抑えられているが、船体はなお軽く震え続けていた。平甲板式の船体は波をよく受け、艦首が上下するたび、鋼板が低く鳴る。
新造艦特有の軋みだった。
「主機は安定している。だが、余裕は少ないな」
機関長の報告を、艦長は艦橋で聞いていた。蒸気圧、回転数、燃料消費。数字は基準内だが、設計通りに動いているとは言い切れない。配管の継ぎ目からは、微かな蒸気漏れが見つかっている。
艦橋の設備は簡素だった。測距は光学式、射撃指揮は機械式。複雑な歯車とカムで構成された装置は、湿気と振動に弱く、定期的な再調整が欠かせない。
「測距、誤差あり。再測定します」
報告は、測距室から伝声管を通じて届く。金属の管を震わせる声は、時に歪み、聞き返しが必要になる。
「了解。繰り返せ」
艦長は即答した。人を介し、声で繋ぐ。これがこの艦の戦い方だった。
兵装は割り切られている。砲は主砲塔のみ、連装十二・七糎砲が四基。砲戦にすべてを賭ける配置だ。対空は機銃のみで、数も多くはない。高角砲も、副砲もない。
「攻撃も防御も、全部主砲と人間次第だな」
砲術長の言葉に、誰も反論しなかった。装填は半自動、照準は目と経験。射撃計算は計算尺と暗算だ。最新鋭などと呼ばれてはいるが、実際のところ、頼れるのは乗員の熟練だけだった。
魚雷発射管は四連装が二基。こちらも新設計で、実射は行われていない。照準は光学式、発射諸元は艦内で手計算される。
「雷撃は切り札だ。使う時は、もう逃げ場がない時だな」
副長が低く言った。
通信は不安定だった。無線機は初期型で、真空管の調子は一定しない。雑音に埋もれた電文を、通信士が必死に拾い上げる。
「……周辺国、衝突……事態、流動的……」
断片的な情報だけが届く。世界がきな臭くなっていることは分かるが、具体像は掴めない。
艦内の指揮伝達は、伝声管と伝令が主だ。艦橋から各部署へ、人の声と足で命令が運ばれる。時間はかかるが、確実だ。電話はあるが、信頼しきれるものではない。
「この艦は、情報が遅れる」
「だが、判断は速い」
艦長はそう言った。軽巡での経験が、自然とそう言わせた。情報が完璧に揃うのを待つ艦ではない。揃わない前提で動く艦だ。
夜、艦内は暗い。灯火は最小限、通路には赤い非常灯が点る。油と金属の匂いが混じる中、整備兵たちが無言で機器を点検していた。
無線室では、また真空管が一本、寿命を迎えていた。
「今のうちで良かったな」
艦長の言葉に、通信士は小さく頷いた。
翌朝、軍令部からの電文が届く。
「状況注視。完熟航海継続。行動変更なし」
命令ではない。
だが、命令の前触れだった。
艦は進む。未完成で、不安定で、癖だらけのまま。
それでも、この艦が試される日が近いことを、誰もが感じていた。
完熟航海とは、艦を慣らすためのものではない。
人間が、この艦に慣れるための時間なのだと――艦長は静かに思った。
異変は、音より先に、違和感として現れた。
夜明け前、海は凪いでいた。完熟航海も折り返しに差し掛かり、艦内の空気はどこか緩んでいる。艦長は艦橋で、いつものように双眼鏡を首から下げ、暗い水平線を眺めていた。
そのとき、伝声管が低く鳴った。
「通信室より艦橋。無線、微弱信号を受信。発信元不明」
「内容は」
「断片的です。位置情報らしき数字と、……救難信号の可能性」
艦長は一瞬、目を閉じた。無線の精度は信用できない。真空管は気まぐれで、雑音が意味を持つことも、その逆もある。
「復唱させろ。記録も取れ」
「了解」
副長が艦橋の隅で腕を組む。
「救難なら、中立義務に抵触しますか」
「状況次第だ」
艦長は即答した。完熟航海中であっても、人命救助は優先される。しかし、この海域は紛争当事国に近い。救難信号そのものが、罠である可能性もあった。
数分後、見張員の声が上がる。
「艦影、右舷前方! 距離……不明、低いシルエットです!」
艦橋が一気に引き締まった。夜明けの薄光の中、黒い影が海面に浮かんでいる。双眼鏡越しに見るそれは、小型艦――駆逐艦級に見えた。
「国籍は」
「識別灯、確認できません!」
艦長は測距儀を覗く。距離は遠い。だが、近づいている。
「主砲、待機。装填は行うな」
「主砲、待機!」
命令は伝声管を通じて砲塔へ伝えられる。金属を震わせる声が、艦内を走る。人が走る音も重なる。
無線がまた唸った。
「……救難……機関損傷……」
断片だが、意味は明確だった。
「副長、針路をわずかに寄せる。速力は維持」
「了解。だが、相手が武装していた場合――」
「その時は、その時だ」
相手艦との距離が縮む。双眼鏡越しに、砲身らしき影が見えた。こちらを向いているかどうかは分からない。
艦長は一瞬、ためらった。この艦は試作艦だ。電子機器は初期型、故障も多い。主砲は強力だが、指揮系統は脆い。戦闘になれば、不利は否めない。
だが、退く理由もなかった。
「識別信号、送れ」
「光でですか?」
「ああ。無線は信用できん」
信号灯が瞬き、暗号が海に投げかけられる。しばらくして、相手艦からも光が返ってきた。
読めない。
規格が違うのか、途中で乱れているのか。
「国籍不明のままです」
「……そうか」
そのとき、相手艦の動きが変わった。針路をこちらに寄せてくる。逃げる様子はない。
艦橋の空気が張り詰める。
「主砲、装填準備」
艦長は静かに言った。
「撃つな。だが、いつでも撃てるようにしろ」
伝声管が鳴り、砲塔から返答が来る。人の声だ。機械音ではない。
距離、さらに縮小。
相手艦から、再び光信号。今度は、短い。
「……停船要求、の可能性があります」
信号員が言う。
「こちらは?」
「こちらに停船命令を出す権限はありません」
副長が即座に返す。
軍令部からの命令はない。交戦規定も曖昧だ。この海域は、法と現実の境界にある。
艦長は決断した。
「減速はしない。針路維持」
「了解」
試すなら、試せ。
この艦が、どこまで通用するか。
数秒後、相手艦の砲口に、はっきりと火が見えた。
「閃光――!」
艦長は叫ぶより早く、動いていた。
「回避運動! 右舵一杯!」
「主砲、警告射!」
命令が走る。人が走る。艦が傾く。第一斉射が、海面を叩いた。命中ではない。だが、十分に意志を示す一撃だった。
相手艦の砲弾は、海面に落ちた。距離は近い。
「これ以上は――」
副長が言いかける。
「踏み込む」
艦長は言い切った。
「この艦は、もう試作じゃない。引き金を引いたのは、向こうだ」
第二斉射。今度は、相手艦の進路前方に弾着。相手は明らかに動揺した。針路を変え、距離を取る。
数分後、海には再び静けさが戻った。
無線が唸る。
今度は、はっきりした電文だった。
「状況報告を求む。詳細至急」
軍令部だ。
艦長は、深く息を吸った。
「副長、事実をそのまま送れ」
「……了解」
《ヴァンダン》は、生き残った。
そして、もう元の場所には戻れない。
完熟航海は、その瞬間に終わったのだ。
ーー
港は静かだった。
《ヴァンダン》が帰投したのは、完熟航海の予定日より二日早い。桟橋に人影は少なく、出迎えの楽隊もない。ただ、憲兵と将校が数名、無言で待っていた。
艦長は舷側に立ち、上陸の号令を待つ。その間にも、艦内では既に書類が動き始めている。戦闘詳報、航海日誌、無線受信記録。すべてが、後の判断材料になる。
――撃ったのは、正しかったのか。
艦長は自問する。だが答えは、とうに出ていた。あの場で退けば、艦も乗員も、もっと悪い形で歴史に名を残しただろう。
会議室は、予想より狭かった。
長机を挟んで、軍令部、外務省、造艦局の代表が並ぶ。制服と背広が混在し、空気は張りつめている。
「では、艦長。事実関係を」
求められたのは意見ではない。判断でもない。ただの事実だ。
私は立ち上がり、帽子を抱えたまま話し始めた。
「完熟航海中、未明に不明艦を視認。無線にて救難信号と思しき断片を受信。識別信号は不成立。相手艦が接近し、砲口をこちらに向けたため、警告射を実施しました」
「先に撃ったのは、相手と?」
「はい。着弾は至近でした」
嘘はない。脚色もない。ただ、こちらが“踏み込んだ”部分は、事実として淡々と述べた。
質疑は長引いた。
なぜ回避しなかったのか。
なぜ無線を信用しなかったのか。
なぜ主砲を装填したのか。
私は、そのたびに答えた。
――それが、この艦の限界だったからだ。
電子機器は初期型で、無線は不安定。識別は光学頼み。情報が揃うのを待てば、先に撃たれる距離だった。判断は艦長に集中する設計だ。逃げる余地は、最初からなかった。
沈黙が落ちる。
やがて、外務省の男が口を開いた。
「相手国は、我が国の艦艇が威嚇行動を取ったと主張しています。ただし、交戦の証拠は曖昧だ」
軍令部の将官が続ける。
「こちらとしては、“偶発的接触”として処理したい。試作艦であり、正式配備前だった点も考慮材料になる」
私は、その言葉に微かな違和感を覚えた。
――試作艦。
確かにそうだ。四隻計画の一番艦。未完成。問題だらけ。だが、あの夜、海の上で、この艦は確かに“戦艦”だった。
「艦長」
造艦局の技師が、こちらを見る。
「あなたの判断で、この艦は生き残った。それだけは、否定できません」
会議は結論を出した。
公式発表はこうだ。
《ヴァンダン》は完熟航海中、識別不能艦と遭遇。相互に警戒行動を取ったが、交戦には至らず。外交ルートにて抗議を行い、事態は沈静化。
真実は、書類の隙間に押し込められた。
造艦計画は正式に中止。
二番艦以降は、設計段階で凍結。
だが、《ヴァンダン》は残る。
理由は単純だ。
――もう、使ってしまったから。
私は艦に戻る。桟橋から見上げた船体は、以前より大きく見えた。傷はない。だが、確実に何かが変わっている。
この艦は、もう「可能性」ではない。
結果だ。
設計者の名を冠したこの艦が、どこまで行くのか。
それを決めるのは、もう政治ではない。
少なくとも、次に砲を撃つとき、誰も「試作艦だから」とは言わないだろう。
私は帽子を被り直し、艦橋へ向かう。
《ヴァンダン》は、今日も命令を待っている。
そして、世界のほうが――この艦を必要とし始めていた。




