第九話 その男は何者か
「入れ」
短い声に応じ、音もなく目の前に現れたのは、リーデンバルド家子飼いの諜報部の男だ。気配は薄く、そこに立っているはずなのに、目を離せばすぐに見失いそうな存在だった。
男は一礼だけして、すぐに本題に入る。無駄な所作は一切なかった。
「……確証は取れたか」
クラヴィスは机に肘をつき、指を組んだまま問いかける。
「ええ、十分に」
男の答えは早かった。平易で特徴のない、聞いた傍から声音を忘れてしまいそうな声だ。
「すごい精度ですよ。王宮の暗部だってこれほど大量の正確な情報は持っていないでしょう。ただの平民が、一体どこで手に入れたのか」
クラヴィスは眉一つ動かさなかった。だが、胸の奥では、同じ疑問がより重く沈んでいる。
「クレイの調査結果は?」
クラヴィスは、クレイの情報の精査と一緒に、クレイ自身についても調べさせていた。
男は淡々と報告する。
「白ですね。フェリシア様と行動をともにしていましたから、フェリシア様の学園の入寮準備のために王都のタウンハウスに来るまでは、公爵領から出たことがありませんでした。当然、王都の闇組織とは関わり合いになれるはずがありません」
男は一瞬だけ言葉を切り、慎重に続けた。自分で報告していながら、信じがたい内容だった。
諜報部に勤める男は、裏社会の情報を手に入れる難しさを身を持って知っている。専門の訓練を受けたわけでもない平民の男が、これだけの情報を持っている――さてどこと繋がっているのかと思えば、拍子抜けするほど何もなかった。それが逆に恐ろしい。果たして、どんな手を使ったのか……男には想像もつかなかった。
「ここ数日は王都を散策していたようですが、怪しい人物との接触はありませんでした。まあ、組織とかかわりのある場所には行ったようですが、一般人も簡単に入ることのできる表向きの場所です。それに……仮に組織の人間と取引をしていたとしても、たった数日でこれだけの情報を手に入れられるとは思えません」
「……そうか」
沈黙が落ちた。報告は終わっている。だが、結論は出ない。いっそ、闇組織と繋がっていたと言われた方が納得できるような結果だった。
「幼い頃から、普通ではないと思っていたが……一体何者なんだ?あいつは」
クラヴィスは静かに呟いた。十三年前の記憶が蘇る。
母を失い、感情を持て余していたフェリシア。癇癪、泣き声、突き刺すような暴言。それらすべてを、クレイは一人で受け止めていた。逃げることも、投げ出すこともなく。ただ黙って、フェリシアの傍に寄り添い続けていた。――わずか、九歳の少年が、だ。
クレイは常に、年齢にそぐわないほどの落ち着きと余裕があった。大人びている、という言葉で片づけるには、違和感があるほど。
クラヴィスに情報を渡してから、二日が過ぎた頃。クレイは再び、クラヴィスの執務室にいた。
執務室は静まり返っている。書類の山は以前よりも高く積み上がっており、それだけでこの数日間の忙しさが察せられた。机の向こうに座るクラヴィスは、フェリシアの前で見せる穏やかな顔とはかけ離れた、厳しい表情をしていた。
「……裏が取れた。現時点では確認できないものもいくつかあったが……少なくとも、確認できる範囲ではすべて正確な情報だった」
「それはようございました」
クラヴィスの言葉に、クレイは一礼する。声色はいつも通り、落ち着いていた。だが内心では、胸の奥で張り詰めていた糸が、わずかに緩んだのがわかった。
――通った。
クレイの安堵とは反対に、クラヴィスは厳しい表情を崩さなかった。クラヴィスはしばし黙り込み、指先で机を軽く叩く。やがて、低い声で続けた。
「だが――お前がなぜ、これだけの情報を知っている?暗号の符牒など……組織の人間でなければ知り得ない情報だ」
当然の問いだった。だが、クレイはその問いに対する答えを持ち合わせていない。
「普通であれば、攪乱や密偵を疑うところだが……お前が生まれた時から我が家に仕えているのは十分知っている。お前の行動も改めて調べさせた。ほとんどフェリシアとともにいて、このような組織と関わる暇などなかった。王都でのここ数日も、怪しい接触はなかったと聞いている。――どこでこれを知った?」
視線が、鋭く突き刺さる。すさまじいプレッシャーに、クレイは思わず冷や汗をかいた。この短い時間で、すでにそこまで調べ上げていたとは。
真実を語ることはできない。前世のゲームの記憶など、語れば狂人として扱われるだろう。
クレイは、ほんの一瞬だけ視線を伏せ、それから静かに口を開いた。
「お答えすることは叶いません。……どうか、リーデンバルド家の情報網からということに」
沈黙。空気が張りつめる。
やがて、クラヴィスは小さく息を吐いた。
「……いいだろう」
その声には、納得というより、決断が含まれていた。
「お前には借りがあるからな、そう言うならば詮索はしない。報告書にも、お前の名前は一切出さない。平民がここまで把握している理由を詮索されれば、命がいくつあっても足りないからな」
「ありがたく存じます」
クラヴィスの言葉は、警告であり、庇護でもあった。クレイは深く頭を下げた。
「私は、偶然不審な動きを見聞きした、ただの従者です。それ以上でも、それ以下でもありません」
クラヴィスは一瞬だけ、苦く笑った。
「見聞きした、といった程度の情報ではないがな。……フェリシアのためか」
「それ以外に、理由はありません」
短いやり取りだった。だが、それで十分だった。
三日後の夜。王都の地下水路に、無数の灯りが揺れた。治安機関と魔導監査局の合同部隊による、一斉摘発だった。過去類を見ない規模の摘発は、結果として大成功に終わった。
禁呪書は押収され、闇マーケットの中枢は壊滅。同時刻、別区画では暗殺者ギルドの拠点が包囲され、主要構成員のほとんどが拘束された。残党はいるかもしれないが、どちらも向こう五年はろくに活動できないだろう。
表向きには、長年追われていた闇組織が、ついに尻尾を掴まれた――それだけの出来事だった。




