第七話 王立学園へ
それからというもの、フェリシアとクラヴィスの二人は、これまでの時間を埋めるようにして互いを知っていった。とは言っても、クラヴィスは多忙の身だ。多くは手紙のやり取りや、仕事先の異国の土産という形でフェリシアに届いていた。
それでもクラヴィスは、帰国した際にはフェリシアのために時間を作った。夕食を共にしたり、一緒にお茶を飲みながら話をしたり、亡母の墓参りに行ったりと、二人はゆっくりと兄妹としての時間を取り戻していった。
その日も、クラヴィスは一時帰国の短い休暇を割いてフェリシアの見送りに来ていた。
今日は、フェリシアが王立学園の寮へと旅立つ日だった。王都のタウンハウスの前庭には、学園へ向かう馬車がすでに用意されている。全寮制の学園では、使用人の帯同にも制限があり、異性の従者は寮の敷地に立ち入ることすら許されない。
――クレイが同行できるのは、ここまでだ。
そう理解していながらも、胸の奥にわずかな鈍痛が残るのを、クレイは無視した。
フェリシアは淡い色の外套を羽織り、学園指定の鞄を手にして立っている。幼い頃から見慣れてきた姿であるはずなのに、今日の彼女はどこか違って見えた。背筋がまっすぐで、視線に迷いがない。
――大きく、なられましたね。
その事実に、誇らしさと同時に、確かな寂しさが込み上げる。
クレイは知っている。フェリシアがどれほど努力してここまで来たかを。泣きそうになりながらも弱音を吐かず、リーデンバルド公爵家の令嬢として、懸命に振る舞ってきたことを。
だからこそ、この旅立ちは祝福されるべきものだ。
けれど――。
学園は、ゲームのメイン舞台だ。フェリシアが、破滅へ向かうはずだった場所である。
頭の中で、過去の記憶――『ヒカオト』のストーリーが静かに浮かび上がる。平民差別、陰謀、暗殺未遂、そして――禁呪。どれも、今のフェリシアとは無縁であるはずなのに、舞台が同じであるというだけで、胸の奥がざわついた。
――直接、お守りすることができない。
その事実が、何よりも不安だった。
これまでなら、彼女の背後に立ち、異変の兆しを察して、先に手を回すことができた。いざという時は、身を挺して庇うことだってできた。しかし学園では、それができない。フェリシアは、彼女自身の足で、彼女自身の判断で歩かなければならない。
それでも。
クレイは、その不安を一切表に出さなかった。フェリシアの前では、いつも通りでいなければならない。それが、従者としての矜持であり、彼が選んだ役割だった。
「……いよいよ、だな」
クラヴィスの声に、クレイは思考を切り替える。主人同士の会話に口を挟むことはせず、ただ一歩下がった位置で控えた。
フェリシアとクラヴィスのやり取りを見つめながら、クレイは静かに呼吸を整える。ゲームの世界では、きっとあのような兄妹のやり取りなどなかっただろう。クラヴィスは見送りにすら来ていなかったに違いない。未来は、確かに変わっているのだ。感情を奥へ、さらに奥へと押し込める。今の自分に必要なのは、感傷ではない。
やがてフェリシアの視線が、こちらに向けられた。翠の瞳はほんの少し、不安の混じった色をしている。
「クレイ……」
呼ばれた瞬間、クレイは完璧な微笑みを作った。それは長年、彼が身につけてきた、従者としての穏やかな笑顔だった。
「お嬢様の学園生活が、どうか実り多きものとなりますように」
形式的な言葉の裏で、心の中では別の声が響いていた。
――どうか、無事で。どうか、傷つかずに。
だが、それを口にすることはない。代わりに、何度も繰り返し伝えてきた言葉を贈った。
「お嬢様。お嬢様の幸せが、私の幸せでございます」
それは慰めでも、別れの言葉でもなく、クレイにとっては紛れもない真実だった。だからこそ、声は揺れず、表情も崩れない。
その言葉に、フェリシアが小さく笑顔を見せた。その瞳にあった不安の色が消えたのを見て、クレイは知らず、ほっと息をついた。
フェリシアが馬車へと向かう。扉が閉まり、車輪が動き出すまで、クレイは一歩も動かなかった。
馬車が視界から消えた後、ようやく胸の奥に押し込めていた感情が、微かに息をする。
守れない距離。届かない場所。現実のフェリシアは、本人も周囲との関係もゲームとは確かに変わっていると分かっていても、クレイの不安は尽きなかった。
それでもクレイは、背筋を伸ばしたまま、静かに思う。
――だからこそ、裏からでも、影からでも。彼女が悪役令嬢にならない未来を、必ず掴み取るのだと。
クレイは、再び感情を完璧に仕舞い込み、何事もなかったかのようにその場を後にした。
タウンハウスの部屋に戻ったクレイは、すぐに再び出かける準備を始めていた。クレイが王都に滞在するのは、あと三日。フェリシアを見送ってからは特にタウンハウスでの仕事もないが、クレイは数日の休暇を貰っていた。執事長には「王都観光でもしてこい」と言われていたが、クレイはこの機会を無駄にするつもりなど毛頭なかった。
『ヒカオト』のメイン舞台は学園だが、もちろん王都城下でのイベントも多くある。
そして、そのうち、フェリシアが関わるものの多くは――表に出ない場所で起きていた。
ゲームのフェリシアは、ヒロイン・アリアにありとあらゆる嫌がらせを仕掛ける。子どもじみたイタズラから、犯罪スレスレの悪辣なものまで――その最も悪質なものが、ヒロインの暗殺計画である。
そしてアレクシスルートでは、さらに致命的な過ちを犯す。アレクシスとの仲を深めるヒロインに対し、嫉妬に狂ったフェリシアは――ついに禁忌とされる呪術に手を出すのだ。
――魅了魔法である。
魅了魔法は、文字通りかけた相手を魅了できる魔法だ。精神操作の術であり、その危険性の高さと悪辣さから、この国では一級禁呪に指定されている。たとえ奴隷相手であれ、人にかければ厳罰であり、相手によっては極刑さえあり得る重罪だった。
ヒロインの暗殺と、アレクシスへの魅了魔法の行使。どちらも悪辣極まりない所業ではあるが、よりまずいのは後者だった。
現代日本を知っているクレイからすると、理不尽にも思えることだが――ヒロインは平民出身である。その暗殺だけであれば、せいぜいフェリシアが修道院送りになるくらいで、公爵家が即座に断罪されることはない。未遂であればなおさらだ。貴族と平民は、それだけ違う存在なのである。
だが、アレクシスへの魅了魔法は違う。
王族への禁呪の行使。それは、国家への反逆行為として扱われる。ゲームでのフェリシアは、そこを理解していなかった。あるいは、理解していても、引き返せなかった。
これが、ゲームのフェリシアがやらかす一番やばい事件である。
アレクシスルートでのゲームのフェリシアは、ヒロインの暗殺未遂、アレクシス王子への一級禁呪の行使未遂、その両方の罪を暴かれ――リーデンバルド公爵家ごと、完全に没落するのだ。
これを放置すれば、どれだけ他を変えても意味がない。
フェリシアの成長も、兄妹の和解も、周囲との関係の改善も。この事件一つで、すべてが無に帰す。
だが、フェリシアの悪事が暴かれ、リーデンバルド公爵家が没落するのは、バッドエンド以外での話である。
アレクシスルートでハッピーエンド、あるいは友情エンドを迎えるには、暗殺者ギルドの動きを先回りして止め、闇マーケットに流れる禁呪書を見つけ出し、謎解きと証拠集めを重ねる必要がある。そこまでやって、ようやく最悪の未来を回避できるのだ。
一つでも遅れれば、ヒロインは命を落とし、あるいはアレクシスがフェリシアに魅了されてヒロインを捨てる。どちらに転んでも、バッドエンドだ。
前世のクレイは、これらの事件を解決し、ハッピーエンドを迎えるために、アレクシスルートを何十回と繰り返していた。全ルート中最高難易度を誇るだけあり、とにかく絶妙なタイミングとタイトな育成スケジュールが求められるのだ。謎解きのミニゲームも、攻略情報がなければかなり苦しかった。
だからこそ――イベントの発生時期、暗殺の手口、禁呪書が出回る流れから暗号の符牒まで。クレイは、そのすべてを知っている。
今のフェリシアがゲームのような行動を取るとは、クレイには微塵も思えなかった。だが、フェリシアが不幸になるような可能性は、万に一つでもなくさなければならない。
そのためには、フェリシアが没落に繋がる事件を起こすための手段をなくしておく必要があった。つまり――暗殺者ギルドと闇マーケットを、潰してしまえばいいのだ。
とは言っても、クレイは正真正銘ただの人である。暗殺者ギルドを一人で制圧できるような武力も、闇マーケットの幹部を翻弄できるだけの知略もなければ、ろくな証拠もなしに国軍を現場に踏み込ませるほどの権力もなかった。あるのは、前世のゲーム知識だけだ。だが――。
クレイは、先ほど別れたばかりの高貴な青年――クラヴィス・リーデンバルドの姿を思い浮かべる。彼であれば、クレイの知る情報だけで、すべてを解決できると確信していた。
クラヴィス・リーデンバルド――彼は、『ヒカオト』の攻略対象の一人だった。
すらりとした長身に、端正に整った顔立ち。国一番の大貴族リーデンバルド公爵家の嫡男という高貴な生まれ。次期公爵として領地の一部を任されている他、ストーリー開始時では齢二十二にして王宮外交部のエースとして活躍する優秀さ。そして、悪役令嬢の実兄であるというスパイス。
表向きのスペックだけを並べれば、まさに王道の攻略対象だった。クレイがゲームでのフェリシアとクラヴィスの兄妹関係を知っているのも、彼のルートで過去が語られるからである。
だが、彼のルートは最初から選べるものではない。
クラヴィスのルートは、他の攻略対象――アレクシスを含むすべてのルートをクリアしてからでなければ解放されない、いわゆる「隠しキャラ」だった。
クレイがフェリシアとクラヴィスの仲を取り持とうとした理由もそこにある。
クラヴィスのルートは、他の全ルートをクリアしなければ解放されない――つまり、二週目以降がない現実のこの世界では、クラヴィスがヒロイン・アリアと深く関わることはない、と踏んだのだ。
事実、『ヒカオト』本編のクラヴィスは常に脇役だ。好感度管理が存在しないどころか、ヒロインと直接会話するイベントすらない。王宮イベントで一瞬だけ立ち絵が出るが、それもヒロインではなく、他の攻略対象と会話している姿だ。彼の存在は、上級生や教師の会話、政治パートの背景説明といった会話の端々で名前が出てくる程度だ。だが、本編での関わりのなさの割には名前が出てくるので、前世のクレイは早々に隠しルートを予想していた。クリア後に解放された三つのルートを見て、案の定と得心したのである。
今の段階でも、クラヴィスはリーデンバルド公爵家の優秀な継嗣として評判だ。だが、クラヴィスの真価が明らかになるのは、隠しルートに入ってからだった。
そのルートは、本編クリア後の世界線になる。リーデンバルド公爵家が没落し、祖国に居場所をなくしたクラヴィスは、隣国へと亡命したことになっていた。ちなみに、本編でのヒロインの恋愛遍歴はなかったことになっているのだが、そこはご愛嬌というものである。
ヒロインは光の魔力を活かして王宮魔法使いとして活躍していた。そして、任務の一環で隣国の国境近くの村に行った際、ある一人の青年を魔物から助ける。それをきっかけに、彼と交流を持つことになった。心を失ったように生気のない青年を、放っておけなかったのだ。その青年こそが――クラヴィス・リーデンバルドだった。
クラヴィスは、ヒロインとの交流で徐々に心を取り戻していく。そして自分を救ってくれた少女の立場を知り、手酷くいじめられた相手の実兄である自分にもやさしく接してくれたヒロインに恋をするのだ。やがて任務を終え王都へ戻るヒロインを見送り、クラヴィスは彼女に相応しい立場を得ることを決意する。
その後のクラヴィスは、まさに圧巻の一言だった。公爵令息時代に外交官として培った知識と交渉力、そしてヒロインに与えられた不屈の精神を武器に、実力主義の隣国で頭角を現し、瞬く間に要職へと上り詰める。
リーデンバルド公爵家の没落は当然隣国にも知られている。実力主義の隣国であっても風当たりは強かったが、それでも彼は受け入れられた。本気を出したクラヴィスは、それほどに優秀だったのだ。
それが、隠し攻略対象・クラヴィス・リーデンバルドの本当のスペックだった。
それだけの能力がある人間だ。リーデンバルド公爵家の地位も権力も使える今、彼の手の届く範囲は非常に大きい。
約一年前、クラヴィスに向けられた瞳を思い出す。あの翠の瞳は、信頼に値するだろうとクレイは思った。




