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第六話 過去と未来


 それから三年が経ち、フェリシアは十五歳になった。年を追うごとに、その面差しは亡くなった公爵夫人――フェリシアの母君に、驚くほど似てきている。


 この三年間、クレイはただひたすらに奔走してきた。フェリシアが悪役令嬢にならないよう――ゲームのイベントを、ひとつでも潰すために。

 だが、クレイは一介の従者に過ぎない。代々リーデンバルド公爵家に仕える家柄とはいえ――所詮は労働者階級だ。クレイ一人では何の権力も持ち得ない。できることは限られていた。


 ――だからこそ。クレイは、自身が接触できる権力者を味方につけようとした。


 すらりとした長身に、端正に整った顔立ち。

 フェリシアと同じ翠の瞳は冷静な光を湛えながらも、今はわずかに緊張の色を帯び、抑えた表情の奥に張り詰めた気配を滲ませていた。


「……フェリシア」


 リーデンバルド公爵家嫡男、クラヴィス・リーデンバルド――フェリシアの実兄である。

 ゲームの世界でのクラヴィスは、実妹であるフェリシアとほとんど関わろうとしない人物だった。フェリシアに関心がなく、積極的に弾劾することこそなかったが、庇い立てることもなかった。そして、フェリシアのせいでリーデンバルド公爵家が没落することになってからは、彼女を憎むようになる。

 現実のクラヴィスも、フェリシアと距離を取っているという点は変わらない。幼い頃は母の死をフェリシアのせいだと思い込み、憎んでいたクラヴィスも、成長してからはそれが誤解だと理解したらしい。しかし、フェリシアが十五歳になった今も和解することはなく、相変わらず家族としての関わりは皆無だった。


 だからこそ、クレイは彼に目をつけた。


 クレイは、まず自身の兄に連絡を取った。クレイの兄は、クラヴィスの従者を務めている。

 慎重に、時間をかけ、兄を通じて少しずつ話を繋ぎ――三年かかって、ようやく今日、この場が用意されたのだ。


 意外なことに、クラヴィスはフェリシアと距離を取ってきたことを、ずっと後悔していた。


 母を失った当時、クラヴィスはまだ七歳だった。幼い彼が、フェリシアを憎むことで自身の心を守ろうとしたのは、ある意味では仕方のないことだったのかもしれない。

 本来であれば適切なケアが与えられるべきだったのに、それすらなく、母を思い出せるような人や物さえ取り上げられたのは、クラヴィスもまた同じなのだ。


 この時兄妹の間に深い溝が生まれてしまったのは、二人の父――リーデンバルド公爵の責任だ。


 だが、クラヴィスにもまったく非がないというわけではない。

 クラヴィスは成長するにつれて、母の死の責任など、フェリシアにはまったくないと理解した。それでも、一度拒絶してしまった手前、どう接していいか分からなくなり――罪悪感から逃げるように、国外留学を選んだのだ。


 そして、謝罪のきっかけも勇気も掴めないまま、ここまで来てしまった。なんともまあ情けないことではあるが、理解できなくもない話だった。


 ゲームのフェリシアは、自身も兄を憎むことで心のバランスを保っていた。兄に対しても会うたびに嫌味や罵倒を繰り返していたのだ。そんな状態であれば、たとえ幼少期の対応に罪悪感があったとしても――フェリシアと距離を取るようになるのは、納得のいく結果であろう。


 だが、現実ではそうはならなかった。


「今まで……すまなかった」


 深く頭を下げたクラヴィスに、フェリシアは一瞬、言葉を失う。


「……お兄様」

「母上が亡くなったのは、お前のせいではないと分かっていたのに……一度拒絶した手前、どう接していいか分からなかった。私が未熟だった」


 強い、後悔の滲む声だった。硬く握った拳が、彼の胸の内の痛みを映すかのようだ。


「許してくれとは言わない……言えない。だが、ずっとお前に謝りたかった」


 フェリシアの瞳が、一瞬潤む。思いがこみ上げ、感情を抑えきれずに声が震えた。


「お兄様……」

「っ、フェリシア?」


 フェリシアの声には、涙と怒りと寂しさが混じっている。クラヴィスはわずかに身じろぎした。


「お兄様に嫌われて、私がどれだけ傷付いたとお思いですか。何がいけなかったのかも分からないまま、ただ憎まれて……私だって、母を失った子どもだったのに。――どうして私を嫌うの、と、泣いたこともありましたわ」

「……本当に、すまない」


 クラヴィスの胸を、突き刺すような言葉だった。クラヴィスは強く唇を噛む。

 緊張の中で呼吸が止まり、沈黙がしばらく続いた。やがて、絞り出すように小さな、震えた声が響く。フェリシアだった。


「でも……でも、本当は……」


 フェリシアは一度、言葉を切った。唇が小さく震える。


「……私はずっと――お兄様に、抱きしめて欲しかったのです。お母様を失った悲しみに、一緒に泣いて欲しかった……」


 フェリシアの翠の瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。

 ――それは、フェリシアの、クレイにすら言ったことのない本音だった。


「フェリシア……」


 クラヴィスは、すぐには手を伸ばせなかった。震える指先が宙で止まる。

 触れてしまっていいのか分からなかった。自分には、彼女に触れる資格があるのか――。

 拒絶してきた時間の長さが、今になって重くのしかかる。


 けれど。

 ずっと、守るべきだったのは、責任から逃げた自分の心ではなく、目の前にいたこの子だった。


 クラヴィスは、ゆっくりと息を吸った。

 今度こそ逃げないと、自分に言い聞かせる。


 そして、恐る恐る――けれど確かな力で、フェリシアの背中に手を回し、強く抱きしめた。


 クラヴィスは、静かに涙を流していた。


「……よかったですね、お嬢様」


 クレイは小さく呟く。抱きしめ合って涙を流す兄妹の姿は、あまりに美しい光景だった。

 二人の間に生まれてしまった溝は、なかったことにはならないだろう。フェリシアの心の傷だって、なかったことには決してならない。だが、そこに新しく橋をかけることはできる。傷跡を薄くしていくことはできる。


 兄に抱きしめられて、泣きながらも嬉しそうに笑うフェリシアの姿に、この選択は正解だったのだと――クレイは、この三年の苦労がすべて報われた気分だった。

 まあ――


「あ"りがと"う、クレイ……本当にありがとう"……!!」


 ――クレイの隣で二人を見守る兄の、こちらが引くほど酷い泣き顔に、クレイの涙はすっかり引っ込んでしまったが。


 それからしばらくして、泣きつかれたフェリシアは侍女に連れられて自室に戻っていった。


「クレイ」


 自身も下がろうとしたクレイを、クラヴィスが呼び止める。姿勢を正したクレイに、クラヴィスは「楽にしてよい」と告げた。

 普段は落ち着いた表情を崩さないクラヴィスだが、今はかすかに穏やかな笑みを浮かべている。目の端が少し赤い。

 

「こうしてフェリシアと再び話すことができたのは、間違いなくお前のおかげだ。本当にありがとう」

「私にはもったいないお言葉でございます」


 クレイは静かに頭を下げた。

 

「何か望みはあるか?私にできることなら叶えよう」


 クラヴィスは鷹揚にそう言った。先ほどまでフェリシアを抱きしめて涙していたとは思えない――確かな支配者の声だった。

 そう問われて言うことは、最初から決まっていた。

 

「では、どうかフェリシア様のお力に――私が望むのは、お嬢様の幸せだけでございますから」

「……ああ。これまで間違ってしまった分、これからは私の持てるすべてでフェリシアを守ると誓おう」


 クラヴィスはそう言って、一度深く頷いた。再び顔を上げたクラヴィスの翠の瞳が、クレイを貫く。そこに宿る強い意志は、きっと信頼に値するだろう。

 クラヴィスは、いつの間にかクレイの隣からクラヴィスの側へと移動していたクレイの兄から、何か紙のようなものを受け取った。兄は何事もなかったかのようにクラヴィスの後ろに控えている。とても先ほどまで酷い顔で号泣していたとは思えない。主従は似てくるものなのだろうか。

 

「クレイ、お前にもこれを渡しておく。何か困ったときは私に連絡してくれ」


 クラヴィスは、クレイに一枚のカードを手渡した。装飾のない、だが極めて上質な紙。王家の紋章と、クラヴィスのサインが記されている。

 ――直達状だ。

 クラヴィスは外交官の職にある。年中国外を飛び回っている多忙な職だ。だが、このカードがあれば、クラヴィスがどこにいても最優先で連絡が届く。王国からの書状と同程度の優先度になると言えば、その重要性がわかるだろうか。通常は、家族や恋人など、極めて親しい仲の人間にしか渡されない。そのカードを託された意味を、クレイは悟った。お前にも、ということは、フェリシアにもきっと渡したのだろう。


「ありがたく、頂戴いたします」


 今の爵位こそ儀礼称号の子爵だが、リーデンバルド公爵家の継嗣であり、優秀な外交官でもあるクラヴィスは、そこらの高位貴族よりも実質的な立場はずっと高い。

 国内外に多くのツテを持つ彼は、フェリシアにとって強力な味方になるに違いなかった。

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