第五話 傲慢
胸の奥に、重いものが沈んでいく。
守れていると思っていた。小さな刺激で感情的になることもなく、手の付けられないような癇癪を起こすこともなく、フェリシアは比較的穏やかに育ってきた。だから――自分は、彼女を少しは守れていたのだと、そう信じていた。
だが、それは錯覚だったのだろう。守れていたのではない。ただ、表れ方が変わっただけだ。
かつて、感情を爆発させることでしか自分を保てなかった少女が、今は逆に、それを必死に押し殺している。癇癪を起こさなくなったのは、心が安定したからではない。
フェリシアの言葉の端々に滲む遠慮。「迷惑をかけないように」という、十二歳の子どもには不釣り合いな自制。そして今、こちらを窺うように揺れる瞳。
――ああ。
ゲームの中で、誰にも受け止められず、激しい感情を手当たり次第に周囲へぶつけるしかなかったあのフェリシアと、今、目の前で必死に「良い子」であろうとするフェリシア。
どちらも同じだ。愛情を知らないまま、どう振る舞えば捨てられないのかを探しているだけだ。
クレイは理解してしまった。
フェリシアの心の中には、確かに穴が空いている。家族から与えられるはずだった愛情が、決定的に欠けたまま、何年も放置されてきた空白が。
それは、自分がどれだけ傍にいても、どれだけ手を差し伸べても、簡単に埋まるものではない。
――父に認められたい。期待されたい。価値があると、存在していいのだと、そう言ってほしい。
その渇きは、クレイの存在だけでは代替できない。
子どもにとって、親の存在は大きい。たとえ虐待されている子でも、いざ親と引き離されるとなると、親を庇う子さえいるのだ。あれだけないがしろにされ続けたフェリシアも、心の奥底では父親に見てもらうことを望んでいる――クレイは、フェリシアにとって自分がただの他人である事実を眼前に叩きつけられたかのような気持ちだった。
――自分は、他人だ。
その事実が、胸に鋭く突き刺さる。
守っていたつもりで、守りきれていなかった。癒やしていたつもりでも、核心を埋めるには足りなかった。
無力感が、じわじわと広がっていく。
その時だった。
フェリシアの指先が、強く握りしめられているのが視界に入った。爪が白くなるほど、強い力が込められている。そして――その瞳に浮かぶ、抑えきれない怯え。
見捨てられるかもしれない、という恐怖がそこにあった。
「一人で大丈夫」と口にしながら、それでも、否定されることを恐れて、答えを待つその姿。
クレイの思考は、そこで止まった。
――違うだろう。
自分は他人だと……だから何だというのか。今考えるべきことは、そんなことではない。無力だと嘆くことでも、自分の立場を思い知って傷つくことでもない。
目の前にいるこの少女は、今この瞬間、必死に縋る場所を探している。
それを前にして、立ち尽くす理由など、どこにもなかった。
――自分は、決めたではないか。
彼女を守ると。あの、小さな手を取った瞬間に。
たとえ、家族の代わりにはなれなくとも。たとえ、いずれ彼女が別の世界へ行くとしても。
それでも。
フェリシアの、見捨てられる不安に押し潰されそうな心を、今ここで、独りにしてはいけない。
クレイは、深く息を吸った。
――人生をかけると、決めたのだ。
こんな事実に打ちのめされている暇などない。後悔も、無力感も、すべては後でいい。
今はただ。
この子が、縋ってもいいと思える存在であり続けること。離れないと、疑わずに済む居場所であること。
それこそが、自分に課された役目だ。
クレイは、揺れるフェリシアの瞳を、真っ直ぐに見返した。
逃げない。目を逸らさない。この不安から、目を背けない。
――守る。
「……お嬢様」
クレイは、幼いフェリシアと交わしたかつての約束を思い出していた。
――お嬢様がご不安なときは、クレイを呼んでください。
――お一人で泣かないでください。
クレイは、胸の奥に沈んでいた感情が、ゆっくりと浮かび上がるのを感じる。
「お嬢様がご立派になられることを、私が妨げるつもりはございません」
フェリシアの肩が、ほんの僅かに強張る。クレイは慎重に言葉を選んでいた。
「ですが、一人で出来ることを増やすことと、誰にも頼らないことは、同じではございません」
フェリシアは、きょとんとした表情でクレイを見た。
「違うの?」
「ええ。まったく別のことです」
クレイは、穏やかな声を保ったまま続ける。できるだけ、
「お嬢様は、もう十分にお強い。ですが――強い方ほど、頼ることを誤解なさいます」
「……誤解?」
「頼ることを、甘えや弱さだと考えてしまわれるのです」
フェリシアは、唇を引き結んだ。
その反応が、答えだった。
「ですが、お嬢様」
クレイは、フェリシアと視線を合わせる。
「私は、お嬢様に頼られるために、ここにおります」
はっきりとした口調だった。
「それは、私の役目であると同時に、私の望みでもございます」
フェリシアの瞳が、わずかに揺れる。
「クレイ……迷惑じゃ、ないの?」
その問いは、あまりに小さく、切実だった。こちらを窺い見るその瞳は、先ほどよりずっと不安定に見えた。
クレイは、唐突に理解した。――この子は。自分が傍にいるからこそ、失う怖さを知ってしまったのだ。寄り添う存在が現れた分だけ、見捨てられる恐怖もまた、強くなっている。
「迷惑だなどと、一度も思ったことはございません」
クレイは即答した。
フェリシアは言葉を失い、視線を落とす。
しばらくの沈黙の後、小さく呟いた。
「……でも、私は……殿下の婚約者になるのよ」
「はい」
「いつまでも、子どものままじゃいられない」
「左様でございます」
クレイは、否定しない。
「だからこそ」
一拍、間を置いた。
「お嬢様には、誰かを頼るという選択肢を、手放してほしくないのです」
フェリシアの指先が、ぎゅっと握りしめられる。クレイは、静かに言葉を続けた。
「夜、眠れない時。怖い夢をご覧になった時。理由の分からぬ不安に襲われた時――そのような時は、これまで通り、私をお呼びください。何をおいてもお傍に参りますから」
フェリシアは、戸惑ったように目を瞬かせる。
「わ、私だって……でも」
「お嬢様。誰かを頼りたいと思うのは、お嬢様が弱いからではございません」
クレイは微かに笑った。
「その人を信頼しているからでございます。もし、お嬢様がクレイを頼りたいと思ってくださるのであれば――それは、お嬢様がクレイを信頼してくださっている証でございます。誰が迷惑だなどと思いましょうか。私にとっては、一番の喜びにございます」
その言葉に、フェリシアの目にじわりと涙が滲む。
「……クレイは」
震える声。
「私が、王子殿下の婚約者じゃなくなっても……ここに、いてくれるの?」
あまりに切実な言葉だった。まだ十二歳の子どもが、自分は条件付きでしか誰かに傍にいてもらえないと思っているのだ。クレイの胸は酷く痛んだ。――一番痛いのは、この子の心だ。
クレイは、跪くことも、誓いを立てることもしなかった。ただ、フェリシアと目を合わせたまま、穏やかに、そして迷いなく答えた。
「もちろんですよ。お嬢様がお許しくださる限り、ずっとお嬢様のお傍にいます」
そして、少しだけ冗談めかして。
「呼んでいただけなければ、私は悲しくて泣いてしまいますので」
「……それは、だめ」
フェリシアは、慌てて首を振った。
「クレイが泣くのは、いや」
「でしたら」
クレイは、柔らかく言った。
「これからも、私をお呼びください。お嬢様が、私が泣くのをお嫌だと思ってくださるように。私は、お嬢様がお辛い時にお傍にいられないのが嫌なのです」
フェリシアは、しばらく黙っていたが――やがて、小さく頷いた。
「……うん」
その返事は、まだ不安を含んでいた。だが同時に、確かな約束だった。
「良いお返事ですね、約束ですよ」
「うん、約束」
クレイはその小さな頷きを胸に刻みながら、思う。
――この約束が、いつか破られる日が来るのかもしれない。
――それでも、今は。
この子が一人で泣かずにいられるよう、自分は傍にいよう。
クレイが、十八歳の冬の事だった。ゲームのストーリー開始まで、あと四年。




