第四話 婚約という名の運命
それから数年は、穏やかに過ぎていった。
フェリシアは十二歳になった。
背はまだ小柄だが、立ち居振る舞いは年齢より落ち着いていて、感情を爆発させることも少ない。まれに夜半に不安を覚えてクレイを呼ぶことはあっても、朝になればきちんと自分の足で立ち、礼儀作法の稽古も学問も投げ出さなかった。
――大丈夫だ。
少なくとも、極端な愛情不足の子どもに見られるような特徴は、彼女にはない。
未来はきっと変わっている。そう思っていた。
だが、ゲームの通り、第一王子アレクシスとリーデンバルド公爵令嬢フェリシアの婚約は成された。ゲームと寸分たがわぬ時期、公示の文言まで一緒だった。
「……同じ、だ」
クレイはその公示を見た時、声に出してそう呟いてしまった。
原作ゲームの画面に表示された文章と、一言一句違わない。その事実に、言いようもない不安を覚えていた。
――変えられていない。少なくとも、大きな流れは。
いや――アレクシスとフェリシアの婚約自体は、驚くことではない。もともとが完全な政略結婚だ。ゲームのフェリシアの性格でさえ婚約が成立しているのだから、フェリシアの気質が変わったところで影響はないだろう。
クレイはそう思い直した。
ゲームのフェリシアは、アレクシスとその婚約者という立場に強い依存と執着を抱いていた。彼を深く愛し、彼にも同じだけの愛を求めた。
ゲームでは、フェリシアは婚約が決まってから最初の顔合わせとなるお茶会で、アレクシスに恋をしたと説明されていた。アレクシスは、政略結婚の婚約者として無難でそつのない対応をしただけだったが、フェリシアは何を思ったのか、彼も自分を愛してくれているのだと思い込んだ。そこから、フェリシアはアレクシスに依存していき、婚約者という立場への執着を強くしていくのだ。その依存と執着は、やがて周囲の女子生徒への激しい嫉妬心と苛烈な嫌がらせへとつながっていく。
前世では、フェリシアを自分の一方的な思い込みを拗らせた勘違い女だと思っていたが、フェリシアの家庭環境を知ったクレイは別の考えを抱いていた。
おそらく、愛や優しさに飢えていたフェリシアは、「婚約者」となったアレクシスに期待を抱いていたのだろう。父や兄は自分を愛してくれなかったが、将来の夫となる人であれば、自分を愛してくれるかもしれない――そんな、切実な期待を。
現実のフェリシアは、この婚約が王家とリーデンバルド公爵家に必要な政略結婚であると理解していた。ゲームにあったような、婚約に対するなにがしかの期待は、少なくともクレイには見て取れなかった。
そのことに、少し安心した。
「私にアレクシス殿下の婚約者が務まるのかしら……」
フェリシアはむしろ、自分が力不足なのではないかとの危惧を抱いているようだった。
確かに、第一王子の婚約者――未来の王妃となる可能性が高い立場には、家柄だけではなく、相応の能力が求められる。
クレイは、前世でのゲーム知識を思い返していた。
アレクシス・エンジェリア――この国の第一王子は、『ヒカオト』の攻略対象者の一人であり、タイトル画面でもセンターを飾るメインヒーローだった。キラキラしい金髪碧眼の王子様である。そして、そのルートの攻略難易度は、攻略対象者の中でもダントツの高さを誇る。
ゲームを通じて描かれるアレクシスの人となりは、まさに王族にふさわしいものだった。
アレクシスは、感情で動く男ではない。彼が何よりも重んじるのは、常に「国の利」だった。誰を傍に置くか、誰を信じるか、誰と結婚するか――そのすべてが、王族としての責務に基づいて選び取られる。ゲームでヒロインと結ばれるまでのストーリーも、その例外ではない。
『ヒカオト』のヒロインであるアリアは、平民の特待生として王立学園に入学する。優秀な学業成績と、希少な光の魔力――それも膨大な量の光の魔力を持つことが理由だ。
アレクシスが平民であるヒロインに近づくのは、彼女の優しさや心の強さに惹かれたからではない。ヒロインが、国にとって有益な存在になると判断するからだ。
ゲームの仕様上、アレクシスルートに入るためには、まず頭脳のステータスを上げて、入学して最初の学力試験で学年五位以内を取る必要がある。そうすることで、アレクシスが生徒会長を務める生徒会に入ることができるのだ。他の攻略対象者は生徒会に入らずともイベントが発生するが、アレクシスルートでは必須となる。それだけでなく、ヒロインの魔法能力を一定以上まで育て、市井の依頼――いわゆるサブクエストを積極的にこなして名声レベルを上げる必要があった。国にとって「利となる人物」にならなければ、アレクシスに関わる好感度イベントそのものが発生しないのだ。
アレクシスは、最初から恋に落ちるわけではない。
国益のためにヒロインに近づき、価値を見極める。その過程で、いつしか本気になっていく――そういう筋書きだった。
そして、それでもなお、恋は絶対ではない。
好感度をどれだけ上げても、ヒロインの教養やマナー、そして名声のステータスが基準に達していなければ、ハッピーエンドには辿り着けない。条件を満たせなかった場合、アレクシスはヒロインに心を寄せていようと、別の選択をする。フェリシアとそのまま政略結婚を結ぶバットエンドか、彼女を断罪した後で、より適した高位貴族の令嬢と結婚する友情エンドだ。
自身の恋心よりも、国の未来を優先する。それは王族らしい、冷静で現実的な決断だった。
――乙女ゲームにしては変なところでリアリティのある設定だと、当時のクレイは思ったものだ。
「クレイ?」
怪訝そうに名を呼ばれて、はっと顔を上げる。前世の記憶を思い返すあまり、意識が飛んでいたようだ。
「お嬢様であれば問題ないかと存じますよ。淑女教育も順調でございますし――もちろん、これまで以上のご研鑽は求められるでしょう。ですが、お嬢様がご懸念されるほど気負われる必要はないかと存じます。――これは王家からの申し出でございますから」
リーデンバルド公爵家は、国一番の公爵家だ。広大な領地は豊かな穀倉地帯と複数の大都市を抱え、公爵家の事業も順調そのもの。リーデンバルド公爵は、宮廷でも参事官の地位にある。十六歳になるフェリシアの兄も、王立学園では大層優秀な成績を修めているそうで、次代も盤石と評判だった。
今回の婚約は、リーデンバルド公爵家と縁づくことで第一王子の地盤を固めたいのだろう王家からの打診だった。王家から話を持ち出した以上、相当な時勢の変化かよほどの瑕疵がなければ、向こうから婚約が解消される可能性は少ない。あのリーデンバルド公爵が、未来の王の外戚となれる機を逃すとも思えなかった。
「そうね……」
フェリシアは浮かない顔だった。目を伏せたフェリシアの長い睫毛が、白磁の肌に影を落とした。その横顔は、十二歳とは思えないような憂いを感じさせる。
「何かご不安がございますか?」
「不安、というか……」
フェリシアは一度言葉を切り、指先をぎゅっと握りしめた。癖のような仕草だ。迷った時、何かを飲み込む時に、フェリシアはよくそうする。クレイは続きを催促せず、フェリシアの言葉を待った。
「アレクシス殿下は……きっと、お忙しい方でしょう?」
「左様でございますね。王子殿下はお嬢様と同じお歳でございますので、ご教育も既に始まっていると聞いております」
「やっぱり……」
フェリシアは小さく息を吐いた。
「私、婚約者になったからといって、特別に優しくしてもらえるとは思っていないわ。むしろ……ご迷惑をおかけしないようにしなくてはいけない立場だもの」
その言葉に、クレイの胸が僅かにざわついた。
――ご迷惑をおかけしないように。
それは、かつて彼女が自分に向けて口にした言葉と、よく似ていた。
フェリシアは顔を上げ、どこか覚悟を決めたような目でクレイを見る。
「だから……これからは、私一人で出来ることを、増やさないといけないと思うの。
――クレイに頼ってばかりでは、いけないでしょう?」
その声音は落ち着いていて、理性的で、年齢不相応に大人びている。
だが――それゆえに。
「……お嬢様」
胸の奥がざわつく。嫌な予感がしていた。
「それは、誰かにそう言われたのですか?」
「違うわ。ただ……殿下の婚約者になるのなら、そうあるべきだと思っただけ」
間違ってはいない。論理としては、正しい。あるいは、王子殿下の婚約者に選ばれた少女が、その立場にふさわしくあろうと、健気に成長しようとしているように見えるだろう。
「夜も……最近は、あまり呼ばなくなったでしょう?頑張ってるのよ。眠れないことがあっても……一人で大丈夫だと思ったの」
フェリシアは少しだけ誇らしげに微笑んだ。褒めて、とでも言いたげなその微笑みは、年相応の幼さが乗る表情だ。だが、指先は変わらず握りしめられたまま。クレイは、フェリシアの瞳に、こちらを窺うような色を確かに見た。
クレイには分かる。フェリシアは、前向きな気持ちでこう言っているのではない。
――彼女は、失望を恐れている。
アレクシス王子との婚約は、フェリシアが父親から初めて明確に向けられた「期待」だった。政略結婚として、王家との縁をつなぐこと――リーデンバルド公爵家の更なる繁栄のための政略の駒として働くこと。フェリシアは、きっとそれに必死に応えようとしている。物心ついた時から、ろくに会話をしたこともない父親のために。
――自分は、何を思い上がっていたのだろう。




