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第三話 無垢な心


 それからの日々は、慌ただしくも穏やかだった。


 クレイはフェリシア付きの従者として、正式に配置された。とは言っても、まだ六歳の少年と生後一ヶ月の赤子である。実務らしい実務はない。主な仕事は、フェリシアの乳母や侍女を手伝い、揺り籠の傍で待機して、異変があればすぐに彼女たちに知らせることだ。


 だが、クレイは油断しなかった。


 『ヒカオト』の悪役令嬢フェリシアは、生まれつき性格が歪んでいたわけではない。そう、クレイは思っている。ゲーム内では描写されない幼少期、周囲の大人たちの対応や環境が、彼女を形作ったはずだ。


 だからこそ、徹底する。


 フェリシアが泣けば、理由を探る。空腹か、不快か、寂しさか。今の彼女の精一杯の感情表現を理解しようと努めた。

 機嫌がいい時には、積極的に声をかける。絵本を読み聞かせ、音の出る玩具で遊び、表情の変化を見逃さない。


 そして何より、誰かがフェリシアの前で使用人を叱責するような場面があれば、さりげなく間に入った。


「大丈夫ですよ、お嬢様。皆、あなたのために一生懸命です」


 まだ言葉も理解できないはずなのに、クレイは語りかける。それは自分自身への言葉でもあった。

 実際、フェリシアはリーデンバルド公爵家の初めての女の子として、たいそう大切に育てられていた。実母の公爵夫人こそ体調の問題から会える時間は少ないものの、仕事で忙しいはずの父の公爵は、時間を見つけてはフェリシアの様子を見にきていた。まだ幼い兄の公爵令息は、最初こそ母や父を取られたように感じたのか、フェリシアをあまり良く思っていないようだった。しかし、公爵令息の従者を務めるクレイの兄の助言もあって、数か月も経てば、兄としての自覚が芽生え始めていた。乳母や他の使用人たちも、この天使のような赤子を愛していた。


 数年後。フェリシアが歩き始め、言葉を覚え、感情を表に出すようになる頃には、クレイはほとんど彼女の影のように常に彼女の傍にいた。この頃も、公爵邸は平和そのものだった。両親と兄、邸の多くの人間に愛され、フェリシアは甘え上手の愛らしい幼子へと育った。やわらかい金の巻き毛に少し色の濃くなった翠の瞳は相変わらず天使の様で、悪女に変わってしまうような予兆はまったくなかった。


 それは、フェリシアが三歳の誕生日を迎える、二日前のことだった。

 ――リーデンバルド公爵夫人が亡くなった。

 公爵夫人は、産後の肥立ちが悪く、ここ数年は体調の思わしくない時期が続いていた。そんな中、今年は近年稀に見る厳冬が領地を襲った。弱った公爵夫人の体は耐え切れず、肺炎を発症し――そのまま儚くなってしまったのだ。


 優しく穏やかな公爵夫人のあまりに早すぎる死に、公爵家は深い悲しみに包まれた。喪に服するため、当然フェリシアの誕生日会は開かれず、代わりに公爵夫人の葬儀が執り行われた。


「おかあさまはいつおかえりになるの」

「おかあさま、おかあさま」


 そう言って泣くフェリシアは、あまりに痛々しかった。

 最愛の妻を失ったリーデンバルド公爵は、ただでさえ多忙だった仕事をさらに詰め込むようになり、公爵邸に帰ってくることも少なくなった。公爵夫人によく似たフェリシアに、妻を失った痛みを思い出すのか、公爵邸にいる短い時間でさえ娘を避けるようになった。フェリシアとの時間を持つようにと進言し続けたクレイの父は、次第に遠ざけられるようにもなった。

 フェリシアと同じく母を失った公爵令息は、どこから聞いたのか、母の死は「さんごのひだち」のせいで、つまりはフェリシアのせいだと思い込むようになった。父親の公爵がフェリシアを避ける姿は、その思い込みをさらに強くした。公爵令息もまだ幼かった。彼自身の心を守るために必要なことだろうと、クレイの兄は途中からあえて否定しないことにしたらしい。その代わり、フェリシア様のお心はお前が守るのだと、クレイは兄から言われていた。

 公爵と嫡男から疎まれた幼子に、寄り添ってくれる使用人は少なかった。雇い主の不興を買いたくないという心情は自然だが、それを理解するにはフェリシアは幼すぎた。


 ――ここが分岐点だ。


 クレイは強くそう思った。そして、ゲームの世界でのフェリシアがあれだけ歪んでしまった理由を、はっきりと理解した。

 ――孤独だ。

 フェリシアは、三歳で母を失い、同時に父からの愛をも失ったのだ。兄からは憎まれ、使用人たちからは腫れ物に触るように扱われる。ゲームのクレイは、母恋しさに泣きわめく幼子を慰める術も余裕も持たなかったのだろう。クレイも、この時まだ九歳だった。

 フェリシアに最も近しい使用人であったはずの乳母は、公爵の意向によって邸から遠ざけられた。公爵夫人の乳姉妹であった乳母もまた、公爵にとっては妻を失った痛みを思い起こさせる存在だったのだ。フェリシアにとっては、おそらく、それが致命的だった。

 十分な愛とふれあいを与えられなかったフェリシアの幼心がいびつに歪んでしまうのは、至極当然のことと言えよう。


 クレイは、これまで以上にフェリシアの傍に居続け、その心を守るように努めた。

 幸い、今のクレイには前世の記憶がある。クレイの前世の妹は、大病で長い間入院していた。当然、病院でできた妹の友達が、妹よりも先に亡くなることだって何度もあった。そのたびに、悲しむ妹に寄り添ってきたのだ。そして、医学を修めた前世のクレイは、その過程で児童心理についても学んでいた。専門でこそなかったが、少なくともこの世界の大半の人間よりかは、知識も経験もあった。それなりに長く生きたこともあって、フェリシアの悲しみや癇癪を受け止めるだけの余裕も十分にあった。フェリシアから誰が離れていこうとも、クレイはずっと傍にいた。


「クレイ」


 鈴のような声で名前を呼ばれるたび、胸がきゅっと締め付けられる。甘やかしてもらうのが大好きだったフェリシアが甘える先は、今ではクレイただ一人だけだ。それすら、ごくたまにしか甘えてこない。泣き虫も今では鳴りを潜め、年齢よりもずっと大人びた言動をするようになった。この数年間で、彼女の心を、クレイは少しでも守れたのだろうか。フェリシアは七歳、クレイは十三歳になっていた。

 フェリシアの幼くてやわらかい心に、どうすれば傷がつかないか。どうすればその痛みを少しでも和らげることができるのか。クレイはそればかり考えていた。


「どうされましたか、お嬢様」

「クレイは、どこにもいかない?」


 まだ幼い、無邪気な問い。だが、その翠の瞳にはかすかな不安が揺れていた。

 クレイは膝をつき、視線を合わせる。フェリシアを安心させるように、力強く頷いた。


「ええ。私は、お嬢様の従者ですから」

「ずっと?」

「ずっとです」


 フェリシアは満足そうに笑った。天使のように愛らしい笑顔だった。


 ――この笑顔を、決して失わせるものか。

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