【ifルート】手紙
手紙は短かった。
机の上に置かれた二通の封筒のうち、兄へと書かれたものを手に取る。封は丁寧に切られており、乱れはない。クレイらしい几帳面さだ、とまず思った。
中には、便箋が一枚だけ入っていた。
――他国で生きることにした。
それだけだった。理由も、挨拶も、今後の予定もない。紙の余白がやけに広く、文字がぽつりと取り残されているようにも見えた。
クレイの兄は、しばらくその文を見つめていた。
他国で生きる。それ自体は、そこまで珍しい話ではない。公爵家の使用人であれば、伝手はいくらでもある。クレイには能力もあった。生きていくこと自体は、容易だろう。――だが。
クレイの兄は、ゆっくりと息を吐いた。
弟が――クレイがその様な選択をする人間ではないことを、自分はよく知っている。
彼の生きる理由はいつも、たった一人だった。
――他国で生きることにした。
主語が、どこにもない。
兄はふと、昔の会話を思い出した。
――兄さん。……私を殺してください。
その後に続いた言葉を、今も一言一句正確に思い出せる。扉が閉まる直前に見た弟の姿が脳裏によぎった。世界の中心を失った、小さなクレイ。
もう一つ思い出すのは、あの夜の翌日に、クラヴィスがクレイに下した命令だった。
――フェリシアの幸せを、その目で見届けろ。それまで死ぬ事は許さない。
それをクレイに伝えた時の、彼の表情を思い出す。あの時、彼をこちらへ連れ戻すには、きっとそれしか方法がなかった。分かっている。弟はその生き方しか選べない。
兄は、手紙をそっと元の位置に戻した。そして、もう一通の封筒――クラヴィス宛のものに目を向ける。開けずとも分かる。そこにはきっと、クラヴィスへの礼と謝罪が、過不足なく書かれているのだろう。
兄は、すでに理解していた。
――クレイ。あの時の続きを、やるのか。
一昨日は、アレクシスとフェリシアの第一子となる第一王子殿下のお披露目パレードがあった。
クレイは、役目を終えたと判断したのだろう。
兄は目を閉じた。声は出なかった。叫びも、怒りも、そこにはなかった。
ただ、胸の奥に、重いものが静かに沈んでいく。
「……そうか」
それだけを、誰に聞かせるでもなく呟く。兄は立ち上がり、窓の外を見た。空はひどく穏やかだった。きっと、昨日のような美しい夕日が見られるだろう。
クレイは、きっと、もう戻らない。戻らないというより――戻る理由を、すでに持っていない。
同じ空を、あいつも見ているだろうか――そんな考えが浮かび、すぐに消える。
見ているはずがない。
だからこそ、あの一文なのだ。
「他国で生きていると……そう、お伝えしよう」
真実を伝えることは――クレイの生きる理由だった方を悲しませるようなことは、彼が一番望まないだろう。
あの方には、お前の手紙のままを伝えると――クレイの兄は空を見て誓った。尊き人となったあの方に、クレイの兄が直接お会いすることはほとんどない。伝えるのはクラヴィスになるだろう。だが、そんな些末なことは、今はどうでもよかった。
――お前は、幸せだったか?
幸せだったのだろうな、と、クレイの兄は思った。弟は、人生の意味をまっとうしたのだ。
――お前を誇りに思うよ。
クレイの兄は、心の中でそう呟いて、そっと部屋を後にした。これから多くの報告が残っている。泣くのは、すべてが終わった後にしようか。




