【ifルート】彼女は幸福だった。
子ども部屋には、柔らかな陽が差し込んでいた。
フェリシアは窓辺の椅子に腰かけ、腕の中の小さな重みを確かめるように抱いている。第二子となる王子――リュシアンは、すやすやと安らかな寝息を立てていた。
「フェリシア」
扉の向こうから聞こえた声に、彼女は顔を上げる。夫の――アレクシスの声だ。二年前に新王として即位した彼は、最近の忙しさに昼休憩も返上して政務に当たっていた。この時間に子ども部屋を訪れるのは数日振りだ。
「あら、アレク。政務は終わったの?」
「ああ、午前の分はすべて片づけてきたよ」
そう言って近づいてきたアレクシスは、フェリシアをそっと抱き寄せ、その腕の中をのぞき込んだ。
「……おや、よく眠っているね」
緊張の抜けた、父の顔だった。いつもの支配者としての雰囲気はすっかり抜け、やわらかく微笑んでいる。
「ええ。リュシアン、お父様がいらしたわよ」
フェリシアが囁くと、リュシアンは小さく口元を動かし、ふにゃりと息を漏らした。
「……愛らしいな」
「本当に」
二人は同じ言葉を、同じ温度で口にする。言葉のあとに訪れる沈黙すら、満ち足りていた。
フェリシアもアレクシスも、やさしい瞳でリュシアンを見つめている。リュシアンの淡い金の睫毛が少し震えた。穏やかな時間だった。
その空気を破るように、控えめなノックの音が響く。
「陛下、ノートレット卿がお呼びです」
現宰相、ヴィンセント・ノートレットの名前に、アレクシスはわずかに眉を寄せた。
「まったく……せっかく時間を作れたと思ったんだが」
心底残念そうな声に、フェリシアは思わず笑みをこぼす。
「お父様はお忙しいですねえ」
腕の中のリュシアンに語りかけるように言うと、アレクシスは苦笑した。
「建国祭が近いからな。レオニスも、最近は夜になると寝顔しか見られていない」
第一子のレオニスは、四歳になったばかりだ。
最近特に多忙なアレクシスは、レオニスの寝かしつけに間に合わない日が続いていた。我が子に「おやすみ」を言えないことへの不満を漏らすアレクシスは、憮然とした顔をしている。普段は王としてどんな感情もコントロールしてみせるアレクシスが、フェリシアの前でだけ見せる表情だった。
「レオニス、昨日は珍しくぐずっていたのよ。お父様が来るまで待つ、って」
「それは……ぜひとも間に合わねばな」
今の時間は家庭教師と勉強をしているはずの我が子を思い浮かべる。普段はあまりわがままを言わないレオニスだが、昨日は父に「おやすみ」が言いたいと少しばかりぐずっていたのだ。アレクシスによく似た容姿のレオニスは、言うことまでそっくりだった。それを聞いたアレクシスの表情が、途端に生き生きとする。
「よし。ヴィンセントには悪いが、できるだけ早く終わらせよう」
アレクシスは、少しだけ悪戯めいた顔をした。前にアレクシスが政務を巻こうと気合を入れた時は、その処理スピードの速さに王宮文官たちがてんてこ舞いだったのだ。彼らを統括するヴィンセントが、その対応に追われていた姿を思い出す。
「あまり無理はしないで。手伝えたらよかったのだけれど」
フェリシアは少し困ったように眉根を下げた。今のフェリシアは、産後間もないからとアレクシスに政務を止められている。フェリシアが休んでいる分、アレクシスにもそのしわ寄せが回ってきているのだ。最近の多忙はそのせいも大いにある。
フェリシアの言葉に、アレクシスは即座に首を振った。
「何を言う。まだお産から日も浅いんだ、政務なんてしたら怒るからな」
「分かっております」
心配性な夫に、なおさら困ったように、しかし幸せそうにフェリシアは笑った。
「陛下」
さっぱりフェリシアたちの傍を離れる様子のないアレクシスに、部下が焦れたように呼び掛ける。アレクシスは、部下に対しては王としての威厳ある声で返事を返し、名残惜しそうにフェリシアを振り返った。
「……すまない。時間切れのようだ」
「ふふ、いってらっしゃい」
「ああ。行ってくる」
アレクシスは、眠るリュシアンの額にそっと口付けを落とす。そしてフェリシアの額にも同じように唇を寄せてから、部屋を後にした。
扉が閉まり、部屋には静けさが戻る。
フェリシアは腕の中の温もりを確かめながら、しみじみと息を吐いた。
――本当に、幸せだった。
アレクシスとは政略結婚だった。
正しく王族であろうとする彼を、フェリシアは貴族としても人としても尊敬していたが、そこに恋や愛はなかった。あるのは尊敬と信頼、そして共に国を背負うことになる彼に対する戦友のような感覚だった。
けれど、アレクシスの隣に並び立ち、同じ未来を見据えて共に日々を重ね、やがて子どもを授かり――気がつけば、彼を愛していた。
アレクシスもきっと同じだった。アレクシスの理知的な碧い瞳は、いつだって尊敬と信頼をもってフェリシアを見つめていた。いつしかその碧い瞳に確かな熱が宿るようになったのを、フェリシアは知っている。
第二子を設けた今、アレクシスとフェリシアは、国中どころか周辺諸国にもおしどり夫婦として知られていた。
ふと、胸の奥に、別の名前が浮かんだ。
――クレイ。
幼い頃から自分を守り続けてくれた、フェリシアの元従者の名前だ。フェリシアの幸せが自分の幸せだと言ってくれた人だった。
彼に恋をしていた。そして、彼が応えることはないと分かっていながら、結婚前にその想いを告げた。結果は思っていた通り。それでも、あの時の自分には必要なことだった。
兄のクラヴィスから、クレイは四年ほど前に職を辞し、他国へ渡ったと聞いている。
フェリシアは窓辺に視線を向けた。
この空は、きっとどこまでも繋がっている。
「――クレイも、どこかで同じ空を見ているかしら」
彼も、きっと幸せであるといい。
その瞬間、腕の中のリュシアンが小さく身じろぎをした。「ふゃ」と泣き出す前の声が聞こえて、フェリシアは優しく体を揺らした。
「大丈夫よ。かわいいリュシアン」
母の優しい声に、小さな王子は再び眠りに落ちていった。
――――
――約四年前。
クレイは、群衆の外れからそれを見ていた。帽子を深くかぶり、万が一にもフェリシアに見つからぬように。
王太子アレクシスの第一子、レオニス殿下のお披露目パレード。国の後継ができたという慶事に国民は沸き、二年前の成婚パレードにも劣らぬ盛大な祝祭が行われていた。
遠目に見えるのは、かつて確かに愛した人の姿だ。――いや、今も愛している。
生まれたばかりの王子を腕に抱いたフェリシアは、国民の大歓声を受けて、アレクシスの隣でやさしく微笑んでいた。アレクシスがフェリシアをそっと抱き寄せると、わあっと歓声が大きくなる。アレクシスは、国民の歓声に応えるように、フェリシアのつむじにキスを贈った。群衆の盛り上がりは最高潮だ。指笛が飛び交い、花びらが舞い散る。
フェリシアは、心から幸せそうに笑っていた。美しい、満ち足りた笑顔だった。
「……ああ、ほんとうに……よかった」
クレイの口からは、自然とその言葉が漏れた。
彼女の幸せを、心から祝福して。クレイは、そっとその場を去った。
翌日。
クレイは、辞職願と短い手紙を二通残して、公爵邸を後にした。手紙の一通はクラヴィスに宛てて、もう一通は兄に宛ててだ。クラヴィスへは、今までの感謝と急に辞めることへの謝罪を。兄には、「他国で生きることにした」と、それだけを綴った。――兄ならば、これだけできっとすべてを分かってくれるだろう。
波の音が静かに胸に響く。クレイは帽子を深くかぶり、一人静かに砂浜に立っていた。
遠くでは、潮風に揺れる波間に夕陽が反射して、金色に輝いている。フェリシアの、黄金を溶かしたような金髪を思い出した。
「……ああ、ほんとうに……よかった」
同じ言葉を繰り返す。
二年前の成婚パレード、そして、昨日見た第一子のお披露目パレード。あのときの人々の歓声が、今でも耳に残っている。
フェリシアは大勢の国民から祝われていた。その腕には生まれたばかりの息子を抱いて、自分はアレクシスの腕に抱かれて。本当に幸せそうに笑っていた。
クレイの胸は痛いほどに締め付けられたが、同時に、深い安堵もあった。
フェリシアは――本当に、幸せなのだ。
多くの人に尊敬され、愛され、守られて。幸せに、生きている。
足元の砂を蹴るように歩き、水面に目を落とす。
いつか、二人で訪れた海。楽しそうに笑ってはしゃいでいたフェリシアの姿が、鮮やかに蘇る。
クレイは微かに笑みを浮かべた。晴れやかな表情だった。
「……これで、私の役目は終わった」
視線を水平線に投げる。遠く、空と海が溶け合う境界。クレイは、夕陽を映すそこに、フェリシアの色を見ていた。
果たして、この先も彼女の幸せは続くのか。そうであってほしいと、心から思う。だが、その答えを知ることは、もう彼には許されていない。
砂浜に残る足跡は、いつしか波にさらわれて消えた。
クレイは立ち尽くすことも振り返ることもなく、水平線の彼方へ静かに歩き出す。空と海が溶け合う場所を目指して。
その背中は、やがて夕陽に溶け、波音に揺られ、静かに消えていった。
砂浜には、穏やかな波の音だけが響いている。




