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第二話 フェリシア・リーデンバルド


 翌日。


 クレイは、人生でこれほどまでに背筋を伸ばしたことがあっただろうか、というほど姿勢を正していた。磨き上げられた廊下は窓からの陽光を反射し、白い石床に淡い輝きを落としている。ここはリーデンバルド公爵邸の奥、家族と近侍のみが立ち入ることを許された区画だ。


 父に連れられ、クレイは一歩一歩を意識しながら歩いていた。


「緊張しているか」


 低い声で父が問う。


「……はい」


 正直に答えると、父は小さく笑った。


「当然だ。だが覚えておけ。今日からお前の人生は、あのお方と結びつく。誠実であれ。忠実であれ。だが、盲目になるな」


 父の言葉は、公爵家に仕えてきた我が家に代々伝わる教えだ。主人を思うあまり、誤りに加担してはならない。諫める勇気もまた、従者の務めであると。


 ――皮肉な話だ。


 ゲームの中のクレイは、それができなかった。あるいは、しなかった。罵倒され、命じられるままに動き、結果として、フェリシアの悪行を助長する存在だった。


 扉の前で足が止まる。父が扉をノックし、口上を告げた。


「お入りなさい」


 中から、優しく落ち着いた女性の声がした。公爵夫人――フェリシアの実母である、公爵家の奥様だ。

 扉が開かれ、甘く温かな空気が流れ出す。乳香と花の香りが混じるその部屋の中央、天蓋付きの揺り籠が置かれていた。


 クレイの視線は、自然とそこへ吸い寄せられる。

 視界の端で父親が礼をとったのが見えて、クレイも慌ててそれに倣った。六つの子どもが見せる精一杯の大人らしさに、公爵夫人は穏やかに微笑んだ。

 「奥様の産後の肥立ちが良くない」と、大人たちが話していたのを聞いた。その時は聞きなれない言葉を不思議に思っただけだったが、前世の記憶を取り戻した今ならその意味がわかる。なるほど、確かに記憶の中の公爵夫人の姿よりも、随分と顔色が悪いようだった。


「クレイ。この子が、あなたがこれから仕えることになるフェリシアよ」


 公爵夫人が、傍の揺り籠の中へ優しい視線を向ける。

 クレイは、揺り篭の前に膝をついた。教えられた通りの動作で、頭を垂れる。


「クレイと申します。これから、お嬢様のお傍に仕えさせていただきます。永遠の忠誠と誠実をあなたに、お嬢様(マイ・レディ)


 形式的な挨拶だった。赤子が理解できるはずもないが、クレイの下げた頭の向こうで、ふにゃふにゃと赤子の声が聞こえた。


「愛らしいでしょう。もっと近くでごらんなさい」

「はい、奥様」


 公爵夫人に促されるまま、クレイは揺り籠の中を覗き込んだ。


 ――ああ。


 思わず、息が漏れた。


 そこにいたのは、想像していたよりもずっと小さく、柔らかく、無防備な存在だった。淡い金色の産毛に縁取られた額、閉じかけの翠の瞳、むにゃむにゃと動く小さな口。天使のように愛らしい、小さな命。


 この子が。

 

 あの、悪役令嬢――フェリシア・リーデンバルド。


 物語の知識が、重く胸にのしかかる。この小さな命には、すでに「破滅」という結末が書き込まれている――そんな馬鹿げた話を、クレイは知っている。ゲームの中では、この揺り籠の先に、数え切れない悲劇が待っていた。誰かの人生を踏みにじり、嘲笑い、最後には断罪される――そういう役割を与えられた存在。

 

 目の前の無垢な赤子があれほど邪悪な存在になるとは、今のクレイには信じられなかった。だが、スチルで見た、悪役令嬢フェリシアの狂気の表情が脳裏をよぎる。

 これが『ヒカオト』の世界ならば、フェリシアの破滅はすでに決められたことなのかもしれない。フェリシアを正しく教育するなどと心中で豪語していたが、こんなに愛らしい赤子が、あのような醜悪な表情をするようになるのだから、そうでもないと信じられない。


 クレイは、フェリシアの将来に……そして自身と自身の家族の職場の安泰に、早くも不安を抱き始めていた。


 だが、その瞬間。


 ふいに、揺り籠の中で小さな手が動いた。


 空を掴むように、指がぱっと開き――そして、揺り籠の縁を掴むクレイの手に、きゅっと絡みついた。


「……っ」


 心臓を、強く殴られたような感覚だった。


 小さな、小さな手。

 力などほとんどないはずなのに、確かにそこに「生きている」という重みがある。


 フェリシアは、ぱちりと目を開けた。

 澄んだ翠の瞳がじっとクレイを見上げて、ふにゃりと笑う。


 ――あ。


 記憶が、重なった。


 病院の白い天井。消毒薬の匂い。保育器越しに見た、小さな妹の手。


 初めて面会が許された日、あの子は――前世のクレイの妹は、フェリシアと同じように、兄の指を掴んで笑ったのだ。

 その時、クレイは幼心に誓ったはずだった。


 自分が、この小さな命を守ると。


 ――守れなかった。


 喉の奥が、ひりつく。白いシーツに力無く投げ出された、妹の痩せた細い手首が脳裏をよぎった。


 クレイは、ふっくらとしたフェリシアの手をそっと包み込む。


「……」


 知らず、涙が頬を伝っていた。後悔というにはあまりに痛くて、救いというにはあまりに残酷だった。


 許可もなくフェリシアに触れたクレイのその行為を、しかし公爵夫人は咎めなかった。わずか六歳の少年が、泣き声のひとつも立てずに、はらはらと涙を流しているのを見たからだ。


 クレイの胸の中に、言葉にならない感情が溢れる。先ほどまでの、惰性混じりの決意など、とっくに吹き飛んでいた。


 この子を。

 この子だけは。――今度こそ。


 悪役令嬢になんて、絶対にさせない。


 前世で守れなかった妹の代わりだなんて、傲慢かもしれない。不敬ですらあるだろう。だが、それでも。


 俺が、この子を守る。


 俺の――人生を賭けて。

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