第十八話 選択
クレイが目を覚ましたのは、馬車が大きく揺れ、その動きを止めた時だった。
飛び起きたクレイは、頭に走る鋭い痛みに顔をしかめた。
「こ、こは……」
「ちょうどいい時に目を覚ましたな、着いたぞ」
御者の声に、慌てて馬車を降りる。見覚えのある景色だった。――クラヴィスが任せられている領地だ。クラヴィスは、すでにリーデンバルド公爵領の一部の執政を担っている。クレイも、フェリシアについて幾度か訪れたことがあった。
クレイの頭は疑問に埋め尽くされる。だが、クレイが今気にするべきはそこではなかった。
「お嬢様は!?」
「あちらだ」
御者が指示した先には――フェリシアが静かに佇んでいた。その向こうにはこじんまりとした、だが瀟洒な造りの家がある。フェリシアは、その家の前で静かに微笑んでいた。
「お嬢、さま」
「クレイ」
フェリシアはなぜか街娘のような恰好をしているし、その後ろには公爵邸にいるはずのクラヴィスがいる。クラヴィスの傍にはクレイを馬車に放り込んだクレイの兄もいた。
聞きたいことはいろいろとあるが、とにかく――フェリシアは笑っている。一人で泣いてなどいなかった。その事実に、クレイの焦燥感が霧散していく。
――ああ、よかった。
「よくぞご無事で……」
「私は大丈夫よ」
大きく胸をなでおろすクレイを見て、フェリシアはくすくすと笑った。クレイのお嬢様は、街娘のような恰好をしていても美しかった。派手な装飾はなく、布地もそれほど高価なものには見えない。服だけで見れば、下町で売っていても違和感のない代物だ。
だが――フェリシアが身に着けていると、それさえ上等な仕立てに見えてしまう。飾り気のないデザインが、むしろフェリシア自身の美しさを引き立てているようだった。
フェリシアの変わらない姿にひとまず安堵したからか、クレイは徐々にこの状況を理解し始めていた。
クラヴィスの治める領地の中でも、特に栄えているとは言えない土地。小さな家。街娘のような恰好をしたフェリシア。そんなフェリシアを優しく見守っているクラヴィス。隣でにやついている兄。そして――約半年前の、あの夏の終わりを思い出す。
一拍置いて状況を理解した瞬間、血の気が引いた。
「……私、を」
喉が焼けつくように痛む。
「……私を、選ばれたのですか」
フェリシアは、一瞬だけ目を伏せたあと、ゆっくりと頷いた。
「ええ」
頭を、思い切り殴られたような衝撃だった。
――嬉しかった。どうしようもなく、嬉しかった。この世の何よりも、自分が欲しかったものを、彼女は差し出してくれたのだ。
だが、それ以上にクレイの胸を占めるのは、痛みだった。心臓を引き絞られるような、痛み。
「……どう、して」
声は震えていた。息さえまともに出来なかった。
自分が――奪ってしまった。フェリシアの、公爵令嬢としての地位も、名誉も、王妃としての輝かしい未来も、すべて。
自分が、分不相応な想いを、抱いたせいで。
フェリシアは、少しだけ困ったように微笑んだ。
「あなたを、愛してしまったから」
まっすぐな言葉だった。
胸が締め付けられる。否定しきれないほどの愛しさが込み上げると同時に、心臓の痛みは増すばかりだった。
「私は……お嬢様の、幸せを思って、だから……諦めようと、お嬢様はアレクシス殿下と……殿下ならば、お嬢様を任せられると、それで」
ひどく動揺して、言葉がまとまらない。
ずっと、フェリシアの幸せだけを願ってきた。多くの人に尊敬され、愛され、守られて。幸せに、生きてほしいと。
彼女にそんな人生を与えられるのは、アレクシスだと信じていた。未来の王妃としての立場と、彼の動かせる公権力が、きっとフェリシアを守ってくれると。お嬢様の隣に相応しいのは、彼なのだと。
「クレイ」
名を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。その声はどこまでも落ち着いていて――やっぱりお嬢様は、人の上に立つに相応しい人なのだと、そんなことを思ってしまう自分が、ひどく苦しかった。
フェリシアが一歩近づく。その距離がやけに近く感じられて、クレイは思わず息を詰めた。
「あなたは、私の幸せが自分の幸せだと、そう言ってくださいましたよね」
フェリシアは静かにそう言った。
――お嬢様の幸せが、私の幸せでございます。
何度も、繰り返してきた言葉だった。彼女が幼い頃から、ずっと。あなたの幸せを願う人間がいるのだと、あなたが幸せになることが嬉しいのだと、知ってほしくて。
「その言葉は、今も本当ですか」
翠の瞳が、まっすぐにクレイを捉える。クレイを見つめる翠の瞳が、澄んだ秋空のような声が、少し、震えていた。
――答えなど、最初から決まっている。
「はい。一生涯、変わることはないでしょう」
即答だった。迷う余地などなかった。
これまでも、これからも、フェリシアの幸せがクレイの幸せだ。何があっても、それは決して揺らがない。それ以外の生き方など、クレイには選べなかった。
「そうですか」
フェリシアは満足そうに笑った。天使のように愛らしい笑顔だった。
――そうだ。この笑顔がずっと、守りたかった。
クレイはその時、自分がずっと、大きな勘違いをしていたことに気が付いたのだ。
「私の幸せは――クレイ、あなたと生きることです」
だからその言葉が、不思議なほどすとんと胸に落ちた。逃げ場を塞ぐように、ゆっくりと胸の奥へ沈み込んでいく。
クレイは、ようやく理解した。
クレイの幸せが、フェリシアとともにあるように――フェリシアもまた、クレイとともにあることを、幸せだと思ってくれているということを。
胸の奥が、ひどく痛んだ。同時に、どうしようもなく温かい。
「……お嬢様」
声がかすれる。膝が、わずかに震えた。感情が溢れすぎて、どう立っていればいいのかも分からなかった。
「……私は、卑怯な男です」
絞り出すように言った。フェリシアは、静かにクレイを見つめている。翠の瞳に射抜かれて、もう何も隠すことは出来ないように思えた。弱くて、臆病で、だから逃げることしかできなかった自分の――愚かさを。
「あなたの幸せだけを願っていると、その言葉に嘘はありませんでした……でもきっと、本当は、あなたに選ばれたいと、心のどこかで願っていた」
フェリシアの前で、こんな弱さを晒す日が来るとは思わなかった。だが、もう取り繕う余裕も、意味もない。
フェリシアは覚悟を示してくれた。クレイは、それに報いるべきだろう。
「あなたが私を選んでくださったことを……私は、喜んでしまっている」
喉が詰まり、言葉が途切れる。視界が滲んだ。浅ましく、愚かで、分不相応な――クレイの、偽らざる本音だった。
「それでいいのです。――あなたが喜んでくれることが、私の幸せなのですから」
フェリシアは、心の底から嬉しそうに笑った。満ち足りた笑顔だった。
もう、耐えられなかった。
フェリシアを胸に抱きしめた瞬間、クレイの心に張り詰めていたものが、音を立てて崩れ落ちた。
「……生涯をかけて、あなたを幸せにします」
――私の、この手で。
「ふふ、はい」
くすぐったそうに笑ったフェリシアの、甘えたような声音が愛しかった。




