第十七話 使命
それからの日々は、あっという間に過ぎていった。夏季休暇が明けてからも、学園は平和だった。フェリシアと毎月のように交わしていた個人的な手紙のやり取りは、ぱったりと途絶えた。これは次の手紙に書いてお嬢様にお伝えしよう、と思っては、ああもう返信を書く必要もないのだと思い直す。邸に手紙が届くたび、意識を引かれてしまう自分がいた。
――その日のクレイはちょうど、公爵邸の貴賓室の掃除をしていた。あの夏の終わりから、約半年が経っていた。クレイは相変わらず、フェリシアを守るためにいろいろな工作を行っていたが、それも今日で一端の終わりを迎える。今日は学園の卒業記念パーティーの日だ。
卒業記念パーティー――多くの学園物乙女ゲームの例にもれず、『ヒカオト』でもエンディング前の一大イベントだった。卒業記念パーティーは、メインこそ卒業生である三年生だが、一、二年生も全員が参加することになっていた。この卒業記念パーティーの終盤で、フェリシアの悪事はヒロインと攻略対象者に暴かれ、断罪されるのだ。その後、ヒロインは攻略対象と愛を誓い合い、結ばれる。クレイが何としてでも阻止するべきフェリシアの断罪イベントの舞台だ。
だが、今のクレイは心配していなかった。
ゲームとは違い、フェリシア・リーデンバルドは悪役令嬢にはならなかった。
平民のヒロインをいじめることはなく、それどころか他の貴族の嫌がらせを諫める立場にあるという。だからといってヒロインと馴れ合うこともなく、「学生はみな平等」という学園の理念に従って表向きは学園の一生徒同士として接しつつも、あくまで貴族と平民として一線を引いた対応をしている。それがむしろ、気高く誇り高い完璧な淑女の対応だとして、今や学園中の女子生徒の憧れだと聞いた。
婚約者であるアレクシス第一王子殿下――卒業後の立太子が発表された王太子殿下との関係も、不穏な噂は聞かない。クレイは彼にエスコートされているであろうフェリシアの姿を思い浮かべた。
卒業記念パーティーでは、学生たちもみなドレスやタキシードと、着飾って参加する。華やかな美貌を持つフェリシアのドレス姿は、さぞや美しいであろう。金髪碧眼の色彩に、眉目秀麗を絵に描いたような端正な顔立ちのアレクシスは、まさしく正統派王子様といったところか。パーティーのために着飾ったお二人の姿は、きっと会場中のどのペアよりも映えるだろう。
――あまりにも、お似合いの二人だ。想像だけで反射的に傷んだ胸は、意図的に無視した。
何はともあれ、今日が終われば、クレイの十八年にわたる使命も、ひとまず達成されたことになる。フェリシアは悪役令嬢にならず、未来の王妃としてアレクシスと幸せになるのだ。もちろん、王族に連なるのだから、苦労も多くあるだろう。だが、フェリシアがアレクシスの婚約者となってからの足掛け七年、彼女がどれだけその立場に相応しくあるための努力と研鑽を積んできたか、クレイは知っている。それが報われるのは、素直に嬉しかった。
それになにより、アレクシスは信頼できる。国益を一番に考える彼は、国一番の公爵家の娘であり、今や同世代の貴族令嬢たちの支持を一身に集めるフェリシアを蔑ろにはしないだろう。たとえ今後、他の誰かに惹かれることがあったとしても、後の後継者争いの火種となるような行為に走るとは思えなかった。
ゲームでも描かれていた誠実な人柄を見ても、フェリシアを共に国を支える相手として尊重してくれるだろう。それが恋情となるかはわからないが、フェリシアを大事にしてくれるのであれば、友情でも親愛でも仲間としての絆でも構わない。
アレクシスと一緒になれば、フェリシアは少なくとも、不幸にはならないだろう……そう思っていたのだ。
だからこそ――知らせを持ち込んできた兄の声は、あまりにも唐突で、あまりにも現実感がなかった。
「クレイ!――お嬢様が、学園で断罪された。王都からの追放だと」
「は、」
喉から漏れた声は、息にもならなかった。
――クレイ!
そう呼んで、柔らかく笑うフェリシアの顔が脳裏に浮かぶ。それを、かつてゲームの中で見た断罪シーンのスチルが、無遠慮に塗り替えていく。
裁かれる少女。孤立した背中。伸ばされることのない手。
あの、絶望に染まった表情。
――どうして。
「クレイ!」
我に返ったときには、すでに体が動いていた。
「おい待て、どこへ行く!」
兄の手がクレイの腕を掴む。振り返ったクレイの顔を見て、兄が目を見張るのが分かった。自分でも、酷い顔をしている自覚はある。
「――お嬢様のもとへ、行かなくては」
声が震えた。心臓は早鐘を打っている。得も言われぬ焦燥感が、全身を焼くようだった。
「待て、お前が行って何ができるんだ?これは第一王子殿下の決定だ。そもそも、俺らは学園には入れないだろう」
兄の言うことは、まったくもってその通りだった。アレクシスがその決定を下したということは、当然国王の許可もすでに取ってあるということだ。平民であるクレイが、その決定に対して出来ることは何もない。
でも。――それでも。
「……何をおいてもお傍にと、お約束したんだ」
「おい!クレイ!」
兄の腕を振りほどき、駆け出した。しかし、クレイより上背のある兄にはあっさりと捕まってしまう。足はクレイの方が速い。だが、瞬発力とリーチの差が厄介だった。
「待てと言ってるだろう!」
「頼む兄さん、離してくれ!お一人で泣かせるわけにはいかないんだ!」
「走って行く気か?いくらお前の足でも三日はかかるぞ」
必死で懇願するクレイに、兄はにやりと笑った。この場にそぐわないような笑顔だった。
「――馬車がある、それに乗れ」
「兄さん」
「クラヴィス様の許可は取ってあるから、心配するな」
「ありがとう!」
「ったく、疑問に思う余裕もないってか」
一目散に馬車止めへ駆け出していく弟に、兄はため息をついた。――クラヴィスが予想していた通りだ。
クレイは公爵邸の馬車止めに駆け込んだ。止めてある馬車のうち、すでに馬が繋がれているのが三台。クレイでも使えそうな家紋の入っていない馬車は二台だった。そのうち一台は、顔見知りの御者が何やら作業している。
クレイは、乗馬にはそれなりの覚えがあった。幼いフェリシアはクレイの傍を離れるのを嫌がったため、遠乗りに行くために鍛えたのだ。子ども一人を乗せてそこそこの距離を走破するくらいであれば、問題がない程度の腕はある。だが、御者の経験はほとんどなかった。馬車を走らせるのに不安はあるが、他の使用人を巻き込むわけにもいかない。兄の言葉では、クラヴィスの許可を取ったのは馬車だ、公爵家の無断で馬を持ち出すわけには、さらにいかない。クレイが御者を務めるしかないのだ。
御者席に乗り込もうと駆け出した瞬間、襟元を強い力で引っ張られる。
「お前はこっち」
その声が聞こえた直後、そのまま軽く体が浮き――別の馬車の中へと放り込まれた。
「兄さん!?」
「じゃあな!またすぐ会いに行くさ」
起き上がる前に馬車の扉が閉まり、外から鍵をかけられる。
――くそ、中からじゃ開かないタイプだ。
御者席側の扉を開けようと立ち上がった瞬間、大きな揺れに体勢を崩す。――馬車が出発してしまったのだ。
どう抜け出そうか考え始めたところで、クレイはふと思い直した。
兄が用意したというのだから、きっとこの馬車が王都に向かうようすでに手筈を整えてくれていたのだろう。何も自分で慣れない御者をしなくとも、クレイはこのまま乗っていればいいだけのことだ。
自分が随分と混乱していたことを思い知り、クレイは苦く笑った。
違和感を覚えたのは、馬車が走り出してしばらく経った後のことだった。馬車は、クレイがフェリシアの学園入学準備のために王都へ同行した際とは違う道を走っていた。それだけであれば、特に問題はない。クレイが王都に向ったのはその一度きりだ、王都に向かうルートは何も一つではないだろう。その時と違う未知であることは、それほど不自然ではない。
だが、この馬車の走っている街道は明らかにおかしかった。クレイは公爵領から出たことはほとんどないが、逆に公爵領内であればそれなりに詳しい自信がある。
――この馬車は、王都とは反対方向へと向かっている。
それを確信した瞬間、クレイは勢いよく立ち上がった。御者席に向かって声を張り上げる。
「待ってくれ。――道が違う」
「いや、合ってるさ」
「この道は王都への街道ではないだろう!?」
「何を言ってるんだ?そうだよ。この馬車は王都へは行かない」
御者席に座る男は、平然とそう言った。先ほど馬車止めで作業していた、顔見知りの御者だ。その横には護衛なのか、公爵家の私兵の制服を着た男が一人、黙ったまま座っている。こちらは見たことがない。
「――下ろしてくれ、自分の足で行く」
「はあ?走っても二日はかかるぞ」
「構わない」
「はあ……クラヴィス様のご命令だ、ここで下ろすわけにはいかない。……悪く思うなよ、クレイ」
御者の男が目配せをした次の瞬間、御者席にいたはずの護衛の男が、無言で馬車の中に飛び込んできた。視界が揺れ、次の瞬間、首筋に衝撃が走る。クレイの意識はそこで途切れた。




