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第十六話 願い


 後日、兄から伝えられたクラヴィスの命令は簡潔だった。


 ――フェリシアの幸せを、その目で見届けろ。それまで死ぬ事は許さない。


 クレイは小さくため息をついた。


 ――酷いお人だ。


 惚れた女が他の男のものになるのを、甘んじて見届けろと言うのだから。だが、逆らうことはできなかった。


 フェリシアの幸せな姿は、クレイだって見たい。王太子とリーデンバルド公爵令嬢の結婚だ、きっと成婚のパレードは盛大なものになるだろう。王宮の侍女によって磨き上げられ、最高級の品々で飾られたフェリシアは、想像を絶するほど美しいに違いなかった。この胸はきっと痛むけれど、それ以上に幸福だろう。大勢の国民に祝福されて幸せそうに笑うフェリシアを、遠目からでも一目見られるのならば、この地獄のような痛みに耐えるなどわけもなかった。


 フェリシアに想いを告げられた日から、クレイはしばらくの間、茫然自失と言っていいような状態で過ごしていた。それでも仕事はきちんと身体が動くのだから、習慣とはすごいものだ。

 あの日の翌日、早朝にフェリシアは王都へと発っていった。見送るクレイの顔は、きっと酷いものだっただろう。フェリシアの前では精一杯取り繕ったつもりだったが、上手くいったのかは定かではない。多少の落ち着きを取り戻した今となっても、あの最後に見た少し寂しそうな翠の瞳が、クレイの脳裏に焼き付いていた。


 クレイの頭と心は、矛盾でいっぱいだった。フェリシアには、アレクシスと結ばれてほしい。クレイは、それが彼女の幸せだと信じているから。確かにあの人の幸せを願っている、だが、叶うならこの手で抱きしめたかった。それが罪悪だと知っているのに、心から望んでしまう自分がいた。

 アレクシスとフェリシアの成婚パレードを思い浮かべて、幸せで嬉しくて満ち足りた気持ちと、身を割くような鋭い胸の痛みが、クレイの心には同居していた。


 昼間、書類整理の合間にクレイはふと胸元に触れた。半ば習慣のようなしぐさだった。そこにあるのは、小さな首飾り。シンプルなデザインのそれは、お忍びだと言って街で買いものをした時、フェリシアがクレイに贈ってくれたものだった。街で売っているものだ、安物ではないが、決して高価な品ではない。だが、フェリシアが選んで贈ってくれたというだけで、クレイには千の金塊よりも万の宝石よりもずっと価値のある物だった。

 ――あの時の笑顔、あの声、あの仕草……全部、覚えていられるだけでいい。


 仕事の手は止めないながらも、クレイの心は王都へと飛んでいく。遠くの空を見つめ、胸の奥からこぼれ落ちた想いを小さくつぶやいた。


「お嬢様……どうか、幸せでいてください」


 その声は自分でも驚くほど弱く、かすかに震えていた。フェリシアの幸せを一番に考えること――それはクレイの使命であり、従者としての義務でもあった。


 夜、部屋に戻ると、クレイは窓辺に腰を下ろし、あの日の最後の別れを思い返す。フェリシアの瞳の奥にあった寂しさ、そして微笑み。たった一言「行って参ります」と背を向けた姿。それを思うだけで、どうしようもなく胸が切なくなる。


 ――この手でフェリシアを幸せにすることは、自分には叶わない。


 だが、クレイにも、せめてできることはある。遠く離れても、彼女の安全を、彼女の幸福を、影のように守り続けることだ。

 フェリシアが学園に入学してからの二年半、フェリシアの傍にいられない分、ゲームのイベントを潰すために様々な手を回してきた。今のところ、フェリシアの不利になるようなイベントはすべて起こっていないが、これから先もそうかは分からないのだ。油断はできなかった。

 今までもこれからも、やることは変わらない。動揺している暇はないのだ。


 その夜、クレイはいつになく遅くまで起きていた。書物の文字は目に入らず、書付の筆も進まない。ただ、窓の外の星空を見上げながら、静かに祈った。


「……どうか、笑っていてください。たとえ私に見ることができなくても、どうかいつまでも笑顔で……」


 色なき風が、窓の隙間から部屋に入る。クレイの髪を揺らし、彼の心に淡い痛みを残したまま、夜は静かに更けていった。

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