第十五話 告解
夜更けの廊下は静まり返っていた。
クレイは一人、灯りを落とした部屋で窓の外を見ていた。
扉が、軽く叩かれる。特徴的なリズムは、クレイの兄のものだった。
「起きてるか」
「……兄さん」
入ってきた兄は、壁に背を預けたまま腕を組んだ。
「酷い顔だな。お前、寝ていないだろう」
「問題ありません」
「そういう答えをする時は、大体問題がある」
……こいつ、相当追い詰められてやがるな。
自分にまで主と話すときのような敬語を使う弟を見て、兄はため息をつき、しばらく黙ってから言った。
「お嬢様、学園に戻られたな」
クレイの肩が、わずかに揺れた。
「……はい」
「夏の間、随分と一緒だったそうじゃないか」
「従者としての務めです」
「――そうか」
兄は一歩近づき、低い声で続けた。
「じゃあ聞くが。あの方にお気持ちを告げられて――お前は、何も思わなかったのか」
「……」
……知っていたのか。
クレイは答えない。いや――答えられなかった。
兄は、確信したように言った。
「お前、逃げているな」
「兄さん」
「従者だから、身分が違うから、相応しくないから。お前の考えていることは全部分かる。だがな」
兄は、クレイの目を真正面から見据えた。
「それですべてを無かったことにできるなら、お前はここまで苦しんでいない。違うか?」
沈黙が落ちる。
やがて、クレイはぽつりと呟いた。
「お嬢様は……私にとって、守るべき主で。私の世界の中心でした。私は、あの方を守るために生きてきた。そのために生まれてきたんだと思っています。それだけで、十分だったはずでした」
声が、少し掠れる。兄は何も言わない。
「……ですが」
指先が震えた。ごまかすように強く握りしめる。
「いつの間にか、それ以上の気持ちを抱いてしまった。必死に見ないふりをしてきました。認めてしまえば、もうお傍にはいられなくなる。それでも、お嬢様のお気持ちを知って……嬉しかった。心の底から歓喜しました」
叶うことなら、この手で幸せにしたい。クレイは自分の手のひらを見つめ、それからゆっくりと握り締めた。
この手が届く範囲は、あまりに小さい。地位も権力も持たない自分が、お嬢様の隣に相応しくないことは分かっていた。
一度だけお会いした、アレクシス殿下の御手を思い出す。あの御手は、クレイよりもずっと広く多くに届くだろう。フェリシアがその手を取る姿を思い出して、クレイの胸はチリリと痛んだ。
「罪悪ですね。従者として、あまりにも過ぎた気持ちだ。それでも……」
クレイは目を閉じた。フェリシアの、美しい笑顔を思い浮かべる。優しくて、気高くて、繊細なのに強くて。努力家で、何事にも一生懸命で……泣き虫で甘えたな、クレイのお嬢様を。
「お嬢様を愛しています。――一人の男として」
長い沈黙。
兄は、深く息を吐いた。
「……そうか」
「兄さん。……私を殺してください」
「クレイ?」
「お嬢様に懸想している男の使用人がいるなど、お嬢様にとって醜聞でしかないでしょう。それも、私はずっとお嬢様のお傍にいました。誓ってお嬢様の不名誉につながるようなことはありませんでしたが、周囲がどう思うかはわからない。私はもう、お嬢様への気持ちを否定することができません。……お嬢様の幸せに、私は邪魔になる」
兄は、静かに弟を見つめていた。いっそ誇らしい気持ちだった。この弟は、主の幸せのために命を差し出せるというのだ。その瞳に、躊躇の色は少しもなかった。ただ純粋に、フェリシアの幸せだけを願っている。
「私が死んだと知ったら、お嬢様はきっと悲しんでくださるでしょう。私は他国で生きているとでもお伝えください。――お嬢様のお傍にいられない人生に、意味などございません」
「……クレイ」
兄には、痛いほどその気持ちが分かった。――自分も、クラヴィスに同じだけの忠誠を抱いているから。
だからこそ、弟が早まらないためには、何を言えばいいかもわかっていた。弟に背を向け、扉に手をかけながら言う。
「それは、お前が決めることじゃない。お前の命はリーデンバルド公爵家のものだ。お前や私の一存で奪えるものではない。――クラヴィス様に伝えよう。あの方であれば、フェリシア様の幸せにつながる選択をしてくださるだろう」
扉が閉まる直前、弟を振り返った。世界の中心を失った弟の姿は、随分と小さく見えた。
「――沙汰を待て。勝手はするなよ」




