10話
カインとの決闘を制したアルスに、安息の時間は与えられなかった。
その日の深夜。公爵邸の客間に用意されたふかふかのベッドの上で、アルスは熱病に浮かされるような感覚に襲われていた。
「……あ、つ……い……」
右手の甲、銀色に染まった指先から、血管を伝って熱い「何か」が逆流してくる。
脳裏に響くのは、金属が擦れ合うような、不快で、しかしどこか懐かしい機械音。
彼は無意識のうちにベッドを抜け出し、吸い寄せられるように部屋を出た。廊下を歩く彼の足取りは、まるで見えない糸に引かれる操り人形のようだった。
「……どこへ、行く……僕は……」
意識の混濁の中で、アルスは気づけば公爵邸の最深部、先ほど開いた『絶対鋼』の小箱があった宝物庫の前に立っていた。
重厚な扉を警備していたはずの衛兵たちは、なぜかその場に倒れ伏している。外傷はない。まるで、空間そのものの酸素を奪われたかのように。
「……アルス?」
背後から、怯えたような声がした。エリナだった。
彼女もまた、ただならぬ気配を察知して駆けつけたのだろう。その手には、アルスが預けていた『静寂』が握られている。
「来ちゃダメだ、エリナ……。何かが、来る」
アルスがそう叫んだ瞬間、宝物庫の扉が内側から「蒸発」した。
物理的な破壊ではない。扉を構成していた物質が、一瞬にして存在の定義を失い、無に帰したのだ。
闇の中から現れたのは、人型を模した「異形」だった。
全身が黒い歯車と蒸気機関で構成され、その胸部にはアルスのものと同じ、不気味な輝きを放つ『12』の刻印が刻まれている。
「『第12被験体:アルス・レーヴェン』。……情報の、回収を、開始する」
機械人形の声は、数百の歯車が噛み合う不快なノイズとなって室内に響いた。
人形が右手を突き出すと、周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。アルスの『物質変換』に似ているが、より暴力的で、より完璧な「事象の書き換え」だ。
「アルスに触らせないわ!」
エリナが割って入り、銀の刃を一閃させた。
『静寂』。アルスが魂を削って錬成した、彼女専用の剣。
キィィィィィィィン!
銀の刃と、機械人形の黒い腕が激突する。火花が散り、衝撃波が宝物庫の石壁を粉々に砕いた。
「エリナ、下がれ! そいつは……物質を『無』に変える力を持っている!」
「関係ないわ! 私が、あなたを守るって決めたんだから!」
エリナは全身から真紅の魔力を噴出させ、無理やり人形を押し戻す。
だが、人形は無機質な動作で空いた左手をエリナに向けた。その掌には、微小な銀色の粒子が収束していく。
「……『物質崩壊』」
「させない!」
アルスは激痛に耐え、右手の『銀の鍵』を突き出した。
彼は自分の体内に流れる、わずか12の魔力すべてを「増幅器」としてではなく、「演算装置」として酷使する。
(……崩壊プログラムの読み取り。構造式の逆転。……結合の再定義!)
アルスの指先から放たれた目に見えない「波」が、人形が放とうとした崩壊の粒子と衝突した。
相殺。
物理法則のぶつかり合いによって、宝物庫の中央に小さな真空状態が発生し、爆風がすべてを吹き飛ばした。
「ガ、アッ……!」
反動でアルスが血を吐く。魔力値12の器で、世界を改変するレベルの演算を行うのは、もはや自殺行為に近い。
「個体名:アルス。……演算能力の、異常な発達を確認。……捕獲から、抹殺へと移行する」
人形の目が、赤く輝く。
その時だった。アルスが握りしめていた『銀の鍵』が、眩い光を放ち始めた。
光はアルスの腕を伝い、彼の脳内にある一つの「図面」を描き出した。
それは、エリナの『静寂』をさらに進化させるための、最終的な回答だった。
「エリナ……僕に、君の魔力をすべて預けてくれ」
「アルス!? でも、あなたの体じゃ耐えきれないわ!」
「いいから! 君の『最強』を、僕の『理』で、一つに束ねるんだ!」
エリナは一瞬だけ躊躇し、それから意を決してアルスの背中に手を回した。
ドォォォォォン!
火山が噴火したような、圧倒的な魔力の奔流。
本来ならアルスの体は一瞬で塵になるはずだった。だが、彼の『12』という特異な数値が、その魔力を完璧な「変換媒体」として受け止めていた。
(……銀の鍵、接続。静寂、過負荷リミッター解除。……形態変換:『銀の聖絶』)
エリナの剣が、純白の光を放ち、形状を変えていく。
もはやそれは剣ですらなく、世界の汚れを削ぎ落とすための「光の楔」だった。
「貫け、エリナ!」
「おおおおおおおっ!」
光の楔が、機械人形の胸部を貫いた。
いかなる物理防御も、いかなる魔法障壁も、その一撃の前には無意味だった。
人形は一瞬にして「光の粒子」へと変換され、この世界からその痕跡を消された。
静寂。
崩れ落ちるアルス。エリナは必死で彼を抱き止めた。
「アルス! アルス、しっかりして!」
「……はは、やっぱり……君の魔力は、重すぎるな……」
アルスは意識を失う寸前、崩壊した機械人形が残した「最後の一片」を見た。
それは、一つの小さな記憶媒体だった。
そこに記録されていた音声が、アルスの耳にだけ届いた。
——『計画は順調だ。12番目の被験体、その覚醒を確認した。……学園へ戻せ。そこで、全ての歯車を噛み合わせる』
アルスの物語は、もはや一学園の、あるいは一国家の騒動では済まなくなっていた。
彼は、自らの出生に隠された「神々の設計図」を巡る、過酷な運命の渦中へと完全に飲み込まれたのだ。




