番外編・名前の呼び方
マックスが帰ってから数日後、ヒストリアはカインに頼まれ、セオドールの執務室で仕事の手伝いをしていた。
セオドールは書類に目を通しながらも、時折こちらに視線を投げてくる。
「…おい」
不意に、低い声。
「はい?」
「お前、マックスのことは普通に“マックス”と呼ぶのに、俺のことはずっと“殿下”だな」
ヒストリアは一瞬きょとんとして、それから少し困ったように眉を下げた。
「えっと…、それは…」
「気に入らない」
即答だった。
ヒストリアは思わず笑いそうになり、慌てて口元を押さえる。
「だって、…マックスさんはマックスさんで…、他に呼び方ありますか?」
「いくらでもあるだろう」
セオドールはペンを置き、腕を組む。
「魔獣使いでも、火炎魔法士でも、面倒なら“厄介者”でもいい」
「最後のは悪口ですよね」
「いや、違う」
堂々と言い切る。
ヒストリアはくすっと笑い、少しだけ視線を逸らした。
「…殿下は、殿下です」
「それをやめろと言っている」
「そんなこと言われても…」
「俺にも名前があるのを知ってるか?」
しばらく黙り込んでから、ヒストリアは小さく息を吸った。
「…じゃあ、」
声が、ほんの少し小さくなる。
「……セオドール、様…?」
途端に、空気が変わった。
セオドールの目が見開かれ、次の瞬間、椅子から立ち上がる音が響く。
「――待て」
「え、な、何ですか?」
ヒストリアが言い終える前に、強い腕が伸び、抱き寄せられた。
「ちょ、ちょっと…!」
胸に顔を押し付けられ、視界が暗くなる。
「…今のは反則だ」
低く、くぐもった声。
「な、なんでそうなるんですか!」
ヒストリアはじたばたするが、抱き締める力は緩まらない。
「放して下さいっ…」
「今は無理だ」
しばらくして、ようやく腕が緩む。
ヒストリアは少し赤くなった顔で睨み上げた。
「…殿下が呼べと言ったのに、ひどいです」
「そうかもな」
セオドールは、どこか満足そうに笑った。
「しばらくは“殿下”のままでいい」
そう言って、また軽く抱き寄せる。
夜の静けさの中、二人の距離は、確かに少し近づいていた。




