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89.決意


城内には、さらに噂が広がり始めていた。

北方の男、マックスが、未だ城に滞在している理由。

そしてヒストリアの周囲をうろついている理由。


「大公が黙認している」

「そもそも、あの婚姻は形式だけだろう」

「元々、ただの人質だ」


そんな声が、ヒストリアの耳にも届くようになっていた。


それでも、セオドールは何も言わない。

止めもしなければ、説明もしない。

ただ、以前と変わらず淡々と執務をこなし、マックスとも最低限の会話しか交わさなかった。


それが、ヒストリアには一番堪えていた。


(…何も、言われない)


信じているのか。

どうでもいいのか。


その夜、城が静まり返る中、ヒストリアは寝室の内扉の前で一度息を整え、それから扉を静かに叩いた。


「…どうした」

低く、短い声。


セオドールの寝室は、書類の山も灯りもいつもと変わらない。


けれど、その空気だけが、どこか張りつめていた。


「…殿下」


ヒストリアは一歩踏み出し、そこで足を止めた。


「お聞きしたいことがあります」


「なんだ」

机の上の書類を手に、背を向けたままのセオドールに向かって、言葉を選ぶ。


「…私が、マックスさんについて北方へ行くことを、殿下もお望みですか?」


一瞬、沈黙が落ちた。


「…そんなこと」

セオドールは、ゆっくりと振り返る。


「いちいち口に出さなくても、わかるだろう」


その言葉に、胸がひりついた。


「…わかりません」

ヒストリアは首を振る。


「殿下が何も言わないと、私の都合で考えてしまいます…」


「ヒストリア」


「重臣の皆さんは、私が北方へ行けば丸く収まると思っています。マックスさんも、私ならここを出て北方で生きていけると」


声が、少し震えた。



「殿下も…、本当は、そう思っているのではないですか?」


セオドールの表情が、硬くなる。


「…もういい」

短く、突き放すような言葉。


「余計なことは考えるな」


その一言が、決定的だった。



「…わかりました」

ヒストリアは、唇を噛みしめる。


「では明日、出ていきます」


その瞬間、セオドールの足音が床を打った。


「待て」

低く、鋭い声。


ヒストリアの腕を掴み、引き寄せる。


「俺は、お前が好きだと言ったはずだ」


抑えきれない苛立ちが声に滲んだ。



「お前が、『好意はあるが、少し待て』と言ったからだろう」


「……」


「好きな女を、どこか遠くへやりたい男がいると思うか?」


ヒストリアの肩が、小さく揺れた。


「応接間の件もそうだ。あの時、お前がいなければ、俺は、部屋ごと破壊していた」


セオドールは、強くヒストリアを抱き締める。



「…何も言わなかったのは、お前に、自分で選ばせたかったからだ」


低く、静かな声。


「何も奪いたくなかった。お前を縛りつけることもしたくない」


ヒストリアの額が、セオドールの胸に触れる。



「…俺の妻は、生涯お前だけだ」



しばらくの沈黙のあと、彼は続けた。



「それでも、お前が去ると言うなら…、」

一瞬、言葉を切る。



「…俺は、黙って送り出そう」

その言葉は、胸から伝わる温かさと共に、優しさ悲痛な叫びを孕んでいた。




*******

翌朝、城の中で小さな騒ぎが起きた。


マックスが白狼の庭でヒストリアと話していたことを理由に、重臣の一人が声を荒らげたのだ。


「北方の男に、妃殿下が付き従っていると聞いたが?」

「魔獣を通して内情を探らせているのではないか」

「大公国の妃として、軽率すぎる行動では?」


そんな声と共に、居並ぶ視線がヒストリアに集まる。


以前なら、誰かが止めてくれただろう。


セオドールやカインが。


だがこの日は、誰も口を開かなかった。



ヒストリアは一度、息を吸う。


「…私が庭に行ったのは、フェンリルのお世話のためです」


声は震えていない。


「マックスさんとは、北方の魔獣との共生について話をしていただけです。それを“内情探り”と呼ぶのは流石に横暴ではありませんか?」


重臣が言葉に詰まる。


ヒストリアは続けた。

「それに、私が誰と何を話すかを決めるのは、あなた達でもなければ、殿下でもありません。私自身です」



一瞬、空気が凍りついた。

だが、誰も否定できなかった。


重臣の一人が、舌打ちを飲み込むように視線を逸らした、そのときだった。



「――それが、あんたの選んだ道か?」

低く、乾いた声が割って入る。


振り向くと、柱にもたれるように立っていたマックスが、腕を組んだままこちらを見ていた。


いつからそこにいたのか分からない。

だが、その視線は最初からヒストリアに向けられていた。


ヒストリアは一瞬だけ瞬きをして、それから、はっきりと頷いた。


「はい」

迷いのない声だった。


「私は、ここにいます。自分で決めました」


その答えに、マックスは数秒、黙り込んだ。



やがて、肩をすくめる。


「あーあ…、」


ため息とも笑いともつかない息を吐き、


「こりゃ、完全にフラれたな」


場の空気が、わずかに緩む。


「じゃあ、そろそろ北方に帰るとするか。これ以上居座ったら、本気で嫌われそうだしな」


そう言ってから、ふっと口元を歪めた。


()()()にも言われたしな。『しつこい男は嫌いだ』って」


「…こいつ?」


ヒストリアが首を傾げると、マックスは隣にいる白狼を指差した。


「フェンリルだ」


「え?」

思わず声が裏返る。


「フェンリルの…、言葉が、わかるんですか?」


マックスは即座に首を振った。

「いや。聞こえるわけじゃねぇ」


その言い方は、妙に真剣だった。


「ただ…、感じるだけだ。感情とか、意図とか、そういうのをな」


ヒストリアは思わず白狼の庭の方を見る。

鉄柵の向こう、白狼たちは落ち着いた様子で身を伏せている。


その中の一頭が、こちらを見て、ゆっくりと尻尾を振った。


マックスは、それを見て小さく笑った。


「今のあいつ。あれがあんたを気に入ってる個体だ。『あんたの手が好きだ』って言ってた」


「……」


「それからもう一つ」

少しだけ声を落として続ける。


「俺に『つがいに触るな』とも」


ヒストリアの頬が、かっと熱くなる。


「…そ、そんなことを…?」


「どうやら、あいつらの中では、セオドールとあんたはちゃんと夫婦に見えてるってことだな」


マックスは肩をすくめ、視線を城の奥へと向けた。


「だからまあ…」

ちらりと、ヒストリアを見る。


「奪う気はねぇ。最初から言ってたろ?選ばせるって」

その声には、もう挑発も探る色もなかった。


「選んだなら、それでいい」

そう言って背を向ける。


「北方は、いつでもある。あんたが自分の足で来たいと思ったら遊びに来な」


数歩進んでから、ふと思い出したように振り返った。



「…ああ、そうだ」


「…?」


「セオドールのことだが、」

一瞬だけ、真剣な目になる。


「あいつの魔力はほんとに危険だ」


「……」


「この前、目の前で見てあらためて思った」


マックスが続ける。


「今のあいつは、あんたがいるから踏みとどまってるだけだ。…気を付けろ」


それだけ言うと、今度こそ背を向け、歩き去っていった。


残されたヒストリアは、しばらくその背中を見送ってから、そのままの足で白狼の庭へ行く。



フェンリルの一頭が、まるで当然のように鉄柵の近くまで寄ってきて、鼻先を柵に押し当てた。


「…ほんとに、夫婦に見える?」


小さく呟くと、白狼は低く喉を鳴らした。

それは、肯定のようにも、不満のようにも聞こえた。


ヒストリアは思わず、苦笑する。


「…また、お世話させてね」


フェンリルは、返事をするように一度だけ咆哮を上げた。




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