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87.危うい立場



ヒストリアが応接間を出て、回廊を歩いていたところで、カインに呼び止められる。


「…ヒストリア様」

どこか焦った声に、ヒストリアは足を止めた。


「応接間で魔力の反応が聞いたのですが。何があったんです?」


どこか半ば呆れ、半ば本気で心配している顔だった。


ヒストリアは一瞬だけ言葉を探し、それから小さく首を振る。


「殿下が…、マックスさんの手を凍らせてしまって…」


「は?…凍らせた」


「でも、すぐに溶けたんです」


「…溶けた?」


「何事もなかったように」


「…マックスの火炎魔法か。…なるほど」

納得したように、カインは息を吐く。



「彼は、火の使い手です。北方の境界に住む先住民族の中でも、かなり強い。私たちがこの国に来て間もない頃からの知り合いです」


「お客様に、大丈夫なんでしょうか…」


「お互いわかってて凍らせたり溶かしたりしてるんだから、気にすることはありません。それに、大公国の民とはいえ、先住民族とは対等な関係です。マックスも殿下の下につくつもりは最初からないですから」


そこまで言ってから、カインは少し声を落とした。

「それで、何で手が凍ったんです?」


ヒストリアは、指先をぎゅっと握る。

少しだけ、躊躇ってから口を開いた。


「…あの、」


「はい」


「マックスさんが…」

言いかけて、言葉を選ぶように間を置く。


「その…」

カインが、静かに待っている。



「…私を、“嫁に”って」


「……」


一瞬、沈黙。



それから、カインの表情が、はっきりと険しくなった。


「…へえ」


冷たい声だった。


ヒストリアは慌てて続ける。

「いえ、もちろん冗談で、本気というわけでは…」


「ですが、大公妃に向かってそう言ったんでしょう?」

カインは、淡々と事実だけを拾う。


「…殿下がお怒りになった理由としては、十分すぎますね」


「……」

ヒストリアは小さく肩を落とす。


「北方の先住民族は、力と縁を重んじる。強い者、興味を引いた者に、真っ直ぐ手を伸ばす文化です」



一拍置いて、苦笑する。


「ですが、相手が()()()()理解した上での発言なら――、」


「…なら?」


「氷で済んだだけ、まだ穏便かと」



ヒストリアは、思わず目を瞬かせた。

「穏便…?」


「ええ」

カインは遠く、応接間の方向を一瞥する。



「殿下が本気で怒っていたら、応接間ごと凍りついていてもおかしくない。…まぁ、面倒ですが、あとで殿下のご機嫌取りでもしていただけると助かります」


その言葉に、ヒストリアは苦笑した。




*******

応接間で魔力がぶつかりあった事件から、数日が過ぎていた。


城内は表向きには平穏を取り戻していたが、どこか張り詰めた空気が残っている。


フェンリルを従え、セオドールの氷を溶かすほどの魔力を持つ男。


使用人たちの間では噂話が、重臣たちの中では互いの腹を探るような視線が、そして、当の本人であるマックスは、気にする様子もなく城に留まり続けていた。



ヒストリアが中庭を抜け、白狼の庭へ向かおうとした時だった。


「――よう」

唐突に声をかけられ、足を止める。


振り返ると、柱にもたれて腕を組んだマックスがいた。


毛皮を重ねた装いは相変わらず城の中では浮いている。

周囲を威圧しているつもりはないのかもしれないが、彼の横にいる耳飾りを付けたフェンリルが、独特な存在感を放っていた。


「…何かご用ですか?」


ヒストリアが警戒を含んだ声で問うと、マックスは片眉を上げた。


「なあ。あんた、どうしてここにいる?」


そう言いながら、視線を城の奥――大公の執務棟の方へ向けた。


唐突な問いだった。



「…大公妃だから、でしょうか」


そう答えると、マックスはゆっくりと首を振った。


「違う。俺が聞きたいのは、どういう経緯でここにいるのかってことだ」


そして、躊躇いもなく続ける。


「あんた、贈り物の花嫁なんだってな」

ヒストリアの胸が、わずかに強く脈打った。


否定できない。

元はそうだったのだから。


「…そうですね」

小さく、しかし誤魔化さずに答えると、マックスは目を細めた。


「やっぱりな」

一歩、距離を詰める。



「だったら余計に聞きたい。なんでまだ生きてる?」


あまりに直截な言葉に、ヒストリアは息を呑んだ。


「…どういう、意味ですか」



マックスは、少しだけ表情を曇らせた。

「俺はな。あの男が大公になる前から知ってる」


「……」


「昔、永久凍土に近い北方で、魔獣狩りをしてた連中がいた。自分たちの力を誇示するためだけに、森を荒らし、群れを壊し、子どもだろうが構わず殺してな」


ヒストリアは、思わず息を詰める。


「俺たちの部族が止めに入った時には、もう遅かった」

マックスの声が、低く沈む。


「そこに、あいつが来た」


一瞬の沈黙。


「怒るわけでもない。警告もなく、ただ、雪の上に立って、言っただけだ」



“狩りをする者は、自分が狩られても文句はないな”



「次の瞬間、森ごと凍りついた」


ヒストリアは、知らず拳を握っていた。


「…あの氷嵐の中、魔獣狩りの連中で生き残った奴はいない」


マックスは視線を逸らし、吐き捨てるように言った。


「邪魔なものは、理由ごと消す。それがあの暴君のやり方だ」


そして、再びヒストリアを見る。


「そんな男の妻だと?」

静かな問いかけ。


ヒストリアの背中を、冷たい汗が伝った。


「なあ」

マックスは、ほんの少しだけ声を落とす。



「あんた、自分がどれだけ危うい位置にいるか、分かってるのか?」


「……」


「重臣たちの噂話を聞いたが、贈り物の花嫁で、平民出身で、魔法も使えない。それでも、あの男の隣に立ってるって」



「それは、守られてるんじゃない。今は、気に入られてるだけだ」


去り際、マックスは振り返りもせずに言った。


「気をつけろ、ヒストリア」

低く、重い声で。


「あの男は、簡単に全てをを凍らせる力を持ってる」


その背中を見送りながら、ヒストリアはその場に立ち尽くしていた。



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