86.北方からの来訪者
晴れたこの日、城はいつもより静かだった。
雪を踏みしめる音と、低く喉を鳴らす気配だけが、白い空気の中に溶けている。
ヒストリアは分厚い外套を羽織り、大きな袋をいくつも抱えて白狼たちの鉄柵の中に入った。
「お腹空いたね、おまたせ」
言葉は穏やかだが、声ははっきりしている。
もはや、恒例となっているフェンリルたちへの給餌だ。
彼らはその声音を理解しているかのように、肉の匂いに鼻を鳴らす。
その時だった。
フェンリルたちの気配が変わる。
威嚇するように鉄柵の外側に向けて唸り声をあげ始めた。
ヒストリアもつられてその方向を見る。
庭の奥、雪に覆われた木立の向こうから、低く重い足音が近づいてきた。
ヒストリアは一瞬、背筋を強張らせた。
「…え?」
(…外に出られないはずなのになんで…、)
ヒストリアがいるのは鉄柵の内側、二十頭あまりの白狼の群れがいる。
なのに、なぜか鉄柵の外側に一頭のフェンリルがいたのだ。
反射的に鉄柵の扉に視線を走らせる。
セオドールの魔法で柵の外には出られないとはいえ、先日の一件があってから万が一の場合を考えて扉の開閉には注意を払っていた。
案の定、扉はきちんと閉まっている。
しかし、外から近づいてくる白狼の姿を見て、すぐに違和感に気づいた。
耳に―――
フェンリルの片耳に、黒曜石のような石を通した小さな耳飾りが揺れていたのだ。
「…別の、子?」
ヒストリアがそう呟いた瞬間、その白狼の後ろから、長身の男が姿を現す。
褐色の肌、まるで狩りでもするかのような鋭い目。
毛皮を重ねた装いは無駄がなく、身体に馴染んでいるように見える。
「へえ…」
男は庭の中を一望し、ヒストリアとフェンリルたちを見比べて、口元を歪めた。
「噂は本当だったか」
ヒストリアは袋を抱えたまま、一歩だけ前に出る。
「…あなたは?」
「俺はマックス。北の境界付近に住んでる」
男――、マックスは、隣に並ぶフェンリルの首元に軽く触れる。
白狼は低く喉を鳴らし、鉄柵の内側にいるフェンリルたちに近づいたが、敵意は見せなかった。
「同族同士だ。喧嘩はしねぇよ」
「…それならよかったです」
ヒストリアはほっと息をついた。
「あんた、女で、しかも若い。なのになんでフェンリルを手懐けてるんだ?」
面白そうに、だが値踏みするように。
「正直、もっと血なまぐさい奴を想像してた」
「…え?」
ヒストリアは肩をすくめる。
「魔獣を何頭も服従させるんだからな」
「服従なんて…、」
その瞬間、庭のフェンリルの一頭がヒストリアの足元に鼻先を寄せた。
それを合図にするように、他の白狼たちも距離を詰め、静かに周囲を囲む。
それは、まるでヒストリアを守るように。
マックスは、思わず低く口笛を吹いた。
「…大したもんだ」
そして、ふっと笑う。
「…なあ」
視線をヒストリアに戻し、軽く顎をしゃくった。
「あんた、侍女か何かか?」
動きやすいシンプルな服装に飾り気のない髪型。
確かに、そう見えても不思議ではない。
ヒストリアが答えようと口を開いた、その時。
「――俺の妻だ」
低く、よく通る声が庭に落ちた。
空気が、ぴたりと止まる。
見ると、鉄柵の外にセオドールが立っていた。
黒い外套を翻し、青い瞳でマックスを真っ直ぐに見据えている。
「…妻?お前の?」
マックスは一拍遅れて、セオドールとヒストリアを見比べた。
「ってことは…、」
「ノルディア大公妃だ」
淡々と答える。
マックスは、しばらく言葉を失ったまま、ヒストリアを見つめた。
やがて、乾いた笑いを漏らす。
「…冗談きついな。フェンリルを何頭も従えて、しかも大公の妻。こんな女が城にいるなんて聞いてねぇ」
興味と警戒、そして――純粋な好奇心。
「面白い」
マックスはそう呟き、にやりと笑った。
「…なあ、セオドール。しばらく厄介になってもいいか?」
セオドールの視線が、わずかに細くなる。
(殿下に敬語を使わない人もいるんだ…)
檻の中で白狼の群れに囲まれるヒストリアは、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「…まぁ、いいだろう」
セオドールが短く言うと、フェンリルたちは彼の気配を察したのか、唸り声を収めて距離を取った。
ヒストリアが、「またね」と声をかけると、数頭が名残惜しそうに鼻を鳴らす。
それを見て、マックスはまた低く笑った。
「…やっぱりな」
城内へ向かう回廊を歩きながら、マックスは遠慮というものを知らない調子で口を開いた。
「で?あんた、どこまでやれるんだ」
「…何が、ですか?」
「魔獣だよ。フェンリル以外にも従えたことは?」
「ありません」
即答だった。
「は?魔獣使いじゃないのか?」
「違います」
「じゃ、魔法士か?魔法の属性は?」
「魔法は使えません」
あまりにあっさりした返答に、マックスは足を止め、真横からヒストリアを覗き込んだ。
「…嘘だろ」
「本当です」
ヒストリアはむっとしつつも、視線を逸らさず答える。
「庭のフェンリルたちは、殿下に懐いているんです。私はその…、ついで、みたいなものです」
「それは違うな」
マックスはきっぱりと言った。
「セオドールの仲間だからって理由だけで、あの檻の真ん中に立てると思うか?」
ヒストリアは言葉に詰まる。
「一頭や二頭なら、まあ、あり得るかもしれない。でも二十頭以上だ。あれは群れだぞ」
マックスの声は、冗談めいていながら真剣だった。
「群れの中で無傷で立っていられるのは、群れに認められた存在だけだ」
ヒストリアは思わず、さきほど鼻先を寄せてきた白狼のことを思い出す。
「…でも、私は何もしてません」
「してないからこそ、だ」
マックスは笑う。
「従えようとしてない。恐れてもいない。利用もしない。だから、あいつらはあんたを危険だと思ってない」
「そんなことで?」
「それだけで、十分な時もあるってことだ」
応接間に通されると、暖炉の火が柔らかく室内を照らしていた。
使用人が手早く茶を用意し、三人は向かい合って腰を下ろす。
マックスは椅子に深く座り、腕を組んだまま、今度ははっきりとヒストリアを見た。
「なあ、あんた名前は?」
「ヒストリアです」
「ヒストリア、一つ教えろ。あの群れの中で、最初にあんたに近づいたのはどいつだ?」
「…最初…?」
剣の勝負に負けて、殿下について回っていた時だ。
たしかに、最初に近づいてきた子がいる。
ヒストリアは少し考えてから答えた。
「他の子より少し大きくて、でも目だけはやけに優しい子です…」
マックスは、満足そうに頷いた。
「やっぱりな」
セオドールが静かに口を挟む。
「何が言いたい」
「簡単な話だ」
マックスは口元を吊り上げる。
「セオドールのフェンリルの群れの中に、ヒストリアに忠誠を向けてる個体がいる。それだけだ」
「…忠誠?」
ヒストリアが小さく繰り返す。
「そうだ。あいつらはな、気に入った相手には、理由なんて求めない」
マックスはそう言ってから、ふっと視線を逸らした。
「俺がここに来た理由も、大体そんなところだが」
セオドールの青い瞳が、鋭く細まる。
「興味本位か?」
「半分は」
マックスはあっさり認める。
「もう半分は――…」
再びヒストリアを見る。
「そんな女がいるなら、嫁にしようと思ったのさ」
その言葉に、ヒストリアは思わず眉をひそめた。
「ヒストリアは俺の嫁だ」
「…ふぅん?だが、見たところ、お前らまだ夫婦じゃねぇだろ」
思わず、ヒストリアは飲んでいたお茶を吹き出してしまった。
「なんていうか、変に距離がある」
「…余計なお世話だ」
セオドールが不機嫌な顔でそう言った。
「気に入った。よろしくな、ヒストリア」
対照的に、マックスは心底楽しそうに笑った。




