番外編・白狼の主
※これは、十三歳のセオドールが大公位を継ぐ少し前の話です。
ノルディア北方、永久凍土に近い山域―――
人の気配がほとんどないその場所で、一頭の狼が血にまみれていた。
フェンリル。
通常の狼の倍はある体躯。白銀の毛並みと、氷のような青い眼を持つ魔獣だ。
それは、罠だった。
人間の仕掛けた結界と、呪いを帯びた鎖。
家族と仲間を庇い、逃がすために踏み込んだ結果こうなってしまった。
唸り声は低く、荒い。
だがそれは威嚇というより、怒りと痛みに耐えるための呼吸だった。
その前に、ひとりの人間が立つ。
黒い外套。
まだ若いが、背筋はまっすぐで、異様な威圧感を放つ男。
セオドール・フォン=アストレイア
当時はまだ「氷の暴君」と呼ばれる前だったが、十三歳の少年とは思えないその膨大な魔力から、すでに周囲からは恐れられていた帝国の第二王子だ。
父親である先代のアストレイア帝国の皇帝の弟、つまりレオンハルトやセオドールの叔父にあたる大公が亡くなり、後継者もいなかったため、セオドールに白羽の矢が立った。
自分が継ぐことになったノルディア大公国を、自らの目で見てみたいと思い、友人であり忠臣のカイン・ヒックスを連れてやってきていた。
「…やりすぎだな、人間は」
独り言のように呟く。
その視線の先には雪に埋もれそうになりながら、真っ赤な血にまみれた狼がいた。
「…狼…?…に、しては大きいな」
カインは立ち止まって様子を伺う。
「おそらく、あれは魔獣フェンリルだ。罠に何かの魔法がかかっていて動けないんだろう」
「…殿下?」
カインの制止を振り切り、セオドールは一歩、雪を踏みしめて前へ出た。
「近づけば噛みつかれます!」
「…もし、俺が殺されたら大公位は継がない。お前が帝国に戻り父上と兄上にそう伝えろ」
淡々とした声音。
「…いや、そんなことをしたら、俺の首が飛ぶでしょう」
「カイン、今死にたくなければ、絶対に剣は抜かずこの場から動くな」
心配そうなカインをよそに、セオドールは雪の中を歩きだす。
近づくにつれ、フェンリルが唸り、牙を剥いた。
敵意、拒絶、憎悪―――
人間は、仲間を奪う存在。
だが、セオドールは剣を抜かなかった。
魔法も構える気配がない。
ただ、荒ぶる巨大な狼の前で膝をついた。
「俺は、お前を殺しに来たわけじゃない」
白狼の氷のような瞳が、わずかに揺れる。
「だが、このままでは死ぬ」
そう言いながら、狼に絡み付く鎖に触れた瞬間、呪いが弾ける。
セオドールは気にする様子もなく、カインが息を呑むほどの魔力で、素手のまま呪式を引き剥がしていった。
セオドールの血が、白い雪に落ちる。
それでも手を止めなかった。
「お前が選べ」
低く、静かに。
「この場で俺を噛み殺すか、それとも、生きて俺と共に来るか」
最後の鎖が外れた瞬間、フェンリルは、一度全身の動きを確かめるように身体を震わせ、セオドールに向かって威嚇を始めた。
その様子をどこかで見守っていたのだろうか、仲間のフェンリルたちまで集まってくる。
魔獣の群れに囲まれるように座っているセオドールを見て、カインは思わず声をあげた。
「殿下…ッ!!」
それを、セオドールが右手を上げて制止する。
“動くな”という合図だ。
フェンリルが飛びかかり、鋭い爪と牙でセオドールに飛びかかろうとする。
しかし、それは寸前で止まり、睨み付けるようにセオドールの様子を探り始めた。
セオドールもまた、視線を反らさない。
しばらくすると、フェンリルが静かに伏せた。
それは完全な服従ではないが、明確な拒絶でもなかった。
「…よし、決まりだな」
セオドールは、初めて小さく息を吐いた。
その言葉に、白狼の尻尾がゆっくりと一度だけ揺れた。
その日から、セオドールの後ろには、常に白銀の魔獣フェンリルたちの姿がある。
誰にも懐かず、誰にでも牙を向ける。
ただ一人、命を助けてくれた人間の隣だけには、静かに座った。
程なくしてセオドールが大公位を継いだあと、魔獣に対して、魔法や呪術を使った不必要な罠の設置が正式に禁止された。
この日から、群れで生活するフェンリルの習性を生かし、城の夜警は彼らに任されることになったのだった。




