84.城の仕事
翌日、ヒストリアは城の地下にいた。
洗濯場に足を踏み入れた瞬間、空気がわずかに揺れる。
蒸気と石鹸の匂いが立ちこめる中、桶を抱えた侍女や下働きたちが、一斉にこちらを見たからだ。
「…妃殿下?」
驚きと困惑が混じった声。
ヒストリアは袖をまくりながら、にこりと笑った。
「お邪魔します。洗濯、手伝わせてください」
一拍の沈黙。
「そ、そんな…!」
「妃殿下が、こんな場所で…」
好意的な声が先に上がる一方で、少し離れたところから、ひそやかな笑いが漏れた。
「使用人の機嫌でもとろうっていうのかしら」
「どうせ三日も続かないでしょう」
ヒストリアの手が、ぴたりと止まる。
次の瞬間、彼女は顔を上げ、そちらを見た。
「三日でやめたら、あなたの言う通りですね」
その場の空気が張り詰める。
「でも、」
桶を持ち直し、視線を逸らさずに続けた。
「続いたら、ちゃんと働きぶりを見てください。噂より、実物のほうが信用できますよ」
にっこり微笑むと、手を動かし始めた。
元々、フェルバールで母と暮らしていた時も、料理や洗濯、掃除は自分でしていた。
城の洗濯物の量には驚いたが、ヒストリアにとって苦になる仕事ではない。
その日から、彼女は洗濯場だけでなく、食料庫や薬草の仕分けにも顔を出すようになった。
「妃殿下、その薬草は湿気に弱いのですが…」
「あ、じゃあ、こっちに移しますね」
慣れない仕事は、ぎこちないながらも真面目で、一切手を抜かない。
好意的な者たちは次第に笑顔で迎えるようになり、否定的だった者たちは、嫌味を言いそびれるようになっていった。
そして数日後。
炊事場で、芋の皮をむく手伝いをしている時だった。
「妃殿下、大したもんですねぇ」
料理長がヒストリアのむいた芋を見て感心する。
「ありがとうございます。もし、まだあればお手伝いさせてください」
「いや、手伝ってくださったおかげで早く終わりました。この芋で、夕食においしいスープを作りますよ」
恰幅のいい料理長がにっこり笑う。
「楽しみにしていますね。…こっちの袋は何ですか?」
そばには大きな袋がいくつも置いてあった。
「…ああ、これは白狼の餌です」
「白狼の?」
白狼―――
フェンリルは、セオドールの魔獣だ。
袋の中にはたくさんの肉が入っている。
「さすがに餌をやりに行って噛まれたやつはいませんが、何しろ殿下以外には懐かないもんで、みんなひやひやしながら行くんですよ」
魔獣フェンリル。
通常の白狼の倍はあろうかという巨体に鋭い牙と爪を持ち、夜になると庭に放たれる。
群れで行動する彼らが、夜のノルディア城を守っているのだ。
しかし、自尊心と忠誠心の高さから主人にしか懐かないという習性があるため、城の使用人たちは世話に手こずっていた。
「…よかったら、私が行ってきましょうか?」
ヒストリアの声に、数人が息を呑んだ。
「妃殿下、さすがに危険すぎます…ッ…」
「おやめになったほうが…」
止めようとする声を軽く手で制止する。
「以前、殿下と一緒にお世話をしたことがあります。その時は大丈夫でした」
「で、でも…」
「とても賢い子たちだったので、たぶん覚えてくれてると思うのですが」
「しかし、妃殿下が噛まれでもしたら…ッ…」
「…まぁ、その時はその時です」
結局、炊事場の総意として出た条件はひとつ。
―――腕の立つ兵士を必ず連れていくこと。
そうして呼ばれたのは、ノルディア城に来て間もない頃からヒストリアに懐いているノエルだった。
「…姫さん、勘弁してくださいよ」
そう言いながら嫌そうに歩くノエルは、先日誕生日を迎えたらしく、16歳になっていた。
「俺、あれ苦手なんですって」
ヒストリアとの剣の稽古で格段に腕を上げていて、肉の入った袋を軽々と肩に担いでいる。
「そう言わないで。兵士を一人連れていくことが条件だったんだから」
「だからって、なんで俺…」
「終わったら稽古に付き合うから、ね?」
「…まぁ、それなら仕方ないっすけど…」
ぶつぶつ言いながらも、逃げ出さないあたりが彼らしかった。
白狼の巣は、城の敷地の奥、厚い石壁に囲まれた一角にある。
重い鉄柵の向こう、広い庭の中央で、白い巨体が何頭も伏せていた。
白銀の毛並みは月光を弾き、氷のような青い瞳がこちらを捉える。
「……っ」
ノエルが息を呑む。
一頭が、低く喉を鳴らした。
唸り声が、石壁に反響する。
「だ、大丈夫なんすか…?」
「大丈夫。ノエルはここにいて」
ヒストリアは、躊躇いなく一歩前へ出た。
「こんにちは」
その声に、白狼の耳がぴくりと動く。
さらに一歩。
鉄柵の内側へ入っていくのを見てノエルが慌てて止めようとするが、もう遅い。
ヒストリアはゆっくりと袋を地面に置いて、膝をつく。
「私のこと覚えてる?」
白狼たちは立ち上がり、唸り声と共に頭を低く構えた。
緊張が、張りつめる。
――次の瞬間、一頭が鼻を鳴らした。
くん、と匂いを確かめるようにヒストリアに近づき、そのまま額を、彼女の肩に軽く押しつける。
ゆっくりと、太い尾が左右に揺れた。
「…え?」
ノエルの口が、ぽかんと開く。
ヒストリアは白狼の首元を撫でながら、振り返った。
「ほら、大丈夫でしょう?」
「……いや、いやいやいや……」
「ノエルもこっち来る?」
「…遠慮しときます」
(なんかあの狼、殿下みたいだ…)
白銀の毛並みと青い目を持つフェンリルと戯れるヒストリアを見て、ノエルは心の中で呟いた。
*******
白狼の庭から戻ったその日の夕刻、ノルディア城の執務室では、カインの簡潔な報告がなされていた。
「…朝は洗濯と掃除、本日の昼間は庭師についてまわって落ち葉を掃いていたようです。あ、夕食のスープに入っていた芋の皮をむいたのもヒストリア様ですね」
「ククッ…、あいつの一日はずいぶんと忙しいな」
セオドールがおかしそうに笑う。
「それから、白狼に餌をやり、最後はノエルに剣術の稽古をつけていました」
「…フェンリルたちに?」
「檻に入った時は流石に陰からついて見ていましたが、終始落ち着いておりました。ヒストリア様に対しては威嚇もなく、むしろ、懐いている様子でした」
セオドールは書類から目を上げなかった。
「問題は?」
「ありません。正直に申し上げますと、使用人たちの方が衝撃を受けておりますね。嫌味を耳に入れないように、とのことでしたが、もはや嫌味を言う使用人はほとんどいません」
その言葉に、セオドールの口元がわずかに緩む。
「そうか」
それだけ言って、再び視線を書類に戻した。
その夜、ヒストリアの部屋と繋がる内扉を、軽く叩く。
「入るぞ」
「はい、どうぞ」
すでに寝巻きに着替えたヒストリアは、鏡に向かって髪を梳いていた。
振り返った表情は、思いのほか明るい。
「毎日忙しそうだと聞いたが、疲れてはいないか?」
「いえ、楽しいです」
即答だった。
セオドールは一瞬、眉を上げる。
「…楽しい?」
「はい。お城の仕事は知らないことばかりで」
拍子抜けするほど素直な答えに、今度はセオドールが小さく息を吐いた。
「俺は、何かを差し出す必要はないと言ったはずだが」
ヒストリアは首を振る。
「私は労働力を差し出しているつもりはありません」
きっぱりとした言い方だった。
「殿下にお仕えしてくださっている皆さんが、どんな仕事をしているのか知りたかっただけです」
少しだけ間を置いて、続ける。
「実は、大公国は魔法士がたくさんいるのでみんな魔法でお仕事されてるのかと思ってたんです。でも、洗濯も掃除も料理も、皆さん手作業でやってて驚きました」
その言葉に、セオドールは思わず笑った。
「妙なところを見ている」
「そうですか?」
「ああ」
その視線はどこか満足そうだった。
「白狼の世話を引き受けたそうだな」
「そんなことまでご存知なんですね」
ヒストリアは苦笑する。
「みんな、すごく怖がっていました」
「当たり前だ」
「あんなに賢い子たちなのに」
「…そう思える人間は少ない」
「そうなんですか?」
「やつらも人間が好きじゃないからな」
そう言いながら、セオドールは窓の外に視線を向けた。




