83.覚悟
昼下がりの回廊、ヒストリアは偶然すれ違った重臣の一人に足を止められた。
白髪混じりの男は形式通りに一礼し、にこやかな笑みを浮かべる。
「妃殿下。ご機嫌いかがでございますかな」
「おかげさまで不自由なく過ごさせていただいています」
当たり障りのない返答だった。
だが男は、そのまま一歩踏み込み、声を落とした。
「最近も、夜はお一人で休まれていると聞きましてな」
胸の奥が、ひやりとする。
「大公国では、夫婦が寝室を別にすることは好ましくないどころか、掟に背く行いとも取られかねません」
敬語の形をしていながら、言葉は鋭かった。
「妃殿下がそのお立場に相応しいかどうか。余計な憶測を招くのは、国にとっても、殿下にとってもよろしくない…ということをご理解くださるとありがたいのですが」
それだけ言うと、男は深く一礼し、何事もなかったかのように去っていった。
回廊に残されたヒストリアは、しばらく動けなかった。
頭では分かっている。
自分が大公妃という立場になった以上、見られるのは覚悟の上だと。
けれど、言葉にされると、胸の奥に重く沈む。
守られているだけでは、足りないのだ。
その日の深夜、ヒストリアは寝室で一人、ランプの灯りの下に座っていた。
隣の部屋から、かすかに紙をめくる音がする。
セオドールがまだ起きているということだ。
扉の向こう。
すぐそこにいるのに、踏み込む理由を、これまで自分は持たなかった。
(無理はするな)
何度も言われた言葉が、脳裏をよぎる。
でもそれは、逃げているだけなのではないか。
守られる側にいることに、無意識に甘えていないだろうか。
ヒストリアは立ち上がり、深く息を吸った。
寝巻きのまま、内扉の前に立つ。
一瞬だけ手を躊躇わせてから、静かに扉を叩いた。
書類に目を落としていたセオドールが、内扉を開ける。
「…どうした」
「…一緒に、寝ようと思って」
淡々と告げたつもりだったが、声はわずかに震えていた。
セオドールの視線が鋭くなる。
「無理をするなと言っただろ」
「無理じゃありません」
「…覚悟がないくせに、ここに来るな」
短く、突き放すような声だった。
しかし、ヒストリアは退かずに一歩前に出る。
「覚悟なら、あります」
その言葉に、セオドールの眉がわずかに寄る。
「…誰かに何か言われたのか?」
ヒストリアは首を横に振るが、セオドールはそれを肯定ととった。
「奴らが言ってる寝室を共にしろというのは、ただ一緒に眠れという意味じゃない」
「…わかってます」
「いや、わかってない。雷が怖くて添い寝するのとはわけが違う」
「…そ…、そういう知識がないわけではないので、ちゃんとわかってます。自分でも何かしなきゃって…、そう決めたんです」
胸の奥に溜め込んでいたものが、言葉になって溢れ出す。
「それがお前の覚悟か」
「はい」
ヒストリアが返事をすると、セオドールは一瞬何かを考えるようにしたが、次の瞬間、ヒストリアの腕を掴み、自身の部屋に引き入れた。
「…っ、」
腕にわずかな痛みが走るが、セオドールの歩みは止まらず、そのまま引きずられるようにして進む。
寝台の前に来たと思ったら、視界が反転し、背中に衝撃が走った。
以前にも一緒に眠ったことがあるセオドールの広い寝台だが、その時見ていた天井を背景に、なぜか苛立った表情のセオドールが自分を見下ろしている。
「…殿下…?」
「こういうことをされる覚悟があるんだろ?」
そう言うと、セオドールの顔が近づいてきた。
反射的に目をぎゅっ、と瞑ると、首にチクッとした痛みが走る。
ヒストリアがセオドールの体を押そうとするが、びくともしない。
その両手すら、彼の片手で簡単に押さえ込まれてしまった。
寝巻きの首元についたボタンが外され、片方の肩が露になる。
「…殿…下っ…、待っ…てくだ…さ…、」
セオドールは聞こえていないかのように鎖骨に唇を落とした。
「…や…ッ、」
やめてとほしいと言おうとしたところで、その言葉すら呑み込まれてしまいそうな深い青色と視線が合う。
「…でん…か…?」
それがまるで知らない男のもののように見えてしまい、ヒストリアの意識が急に不安に包まれた。
腰についているリボンがほどかれると、締め付けられるものがなくなり、恐怖で声さえ出なくなる。
寝巻きに両手がかかったところで―――、
「…だから言っただろ」
低く、押し殺した声がした。
「…っ、」
ヒストリアは息を詰めたまま、何も言えずにいる。
乱れた寝巻きを肩にかけ、静かにヒストリアの身体が起こされる。
「お前に覚悟なんかない」
その言葉は刃のようでいて、どこか、優しさも帯びていた。
「…覚悟っていうのはな、」
セオドールは寝台を降り、視線を逸らす。
「誰かに言われたから持つものじゃない。追い詰められて、選ばされた末に持つものでもない」
沈黙が落ちる。
「それでも前に進むと、自分で決めた時にだけ、初めて覚悟になる」
ヒストリアの指先が、きゅっとシーツを掴んだ。
「私は…、」
声が、震える。
「…皆がいう、妃殿下らしさとか…、相応しさとか、それができないから、せめて――…」
「そんなのはどうでもいい」
きっぱりと遮られた。
セオドールは、ヒストリアの前に膝をつき、視線を同じ高さにする。
「お前は、もう十分やってる」
その声は、先ほどまでとは別人のように穏やかだった。
「何かを差し出さなければ認められないなんて思うな。ここにいる理由を、誰かに証明する必要もない」
「…でも、」
ヒストリアの目に、滲んだものが浮かぶ。
「…リュカ様が、」
「…?」
「身分は関係ない、何ができるかで価値が決まる、と」
「…ルーカスの言葉でこんなことをしていると知られたら、あのジジイ発狂するぞ」
セオドールが盛大なため息をついた。




