81.妃の噂
大公城に戻ってから、まだ数日しか経っていないというのに、噂というものは驚くほど足が早かった。
ヒストリアは、朝の身支度を終え、侍女のエマに髪を整えてもらっている。
美しい白金色の長い髪を、後ろの高い位置でひとつに結い、小さな飾りをつける。
胸元にはいつもの赤い石のペンダントがつけられていた。
ふと廊下の向こうから聞こえてきた声にエマが手を止めた。
「…ねえ、聞いた?」
「声、低くして。妃殿下の部屋の近くよ」
「だって…、ほら、正式な婚姻なのに、寝室が別だって」
ひそひそとした声は、意図していなくとも、静かな城内ではよく通る。
「それに、衣装も質素でしょう?大公妃なのに、宝石も控えめで」
「華美なのを好まれないって話だけど…」
「本当は、愛されてないんじゃない?」
エマがぴくりと肩を揺らした。
「…どなたの話をしているんでしょうか?」
エマが廊下へと続く扉を開けて、きっぱりとした声で言った。
すると、廊下にいた掃除担当の侍女たちは、慌てて散っていく。
ヒストリアは、鏡の中の自分を見つめたまま、ゆっくりと息を吐く。
「…エマ、止めなくていいのに」
「よくありません!」
エマは珍しく、はっきりと言い返した。
「ヒストリア様のお耳に入るような場所で、勝手な憶測を口にするなど。ましてや――…」
言いかけて、エマは言葉を飲み込んだ。
ヒストリアは、小さく首を振る。
「大丈夫。全部、聞こえないふりをする方が、かえって苦しいし、本当のことだから」
そう言って微笑もうとしたが、うまく形にならなかった。
フェルバール王の罪や、替え玉の花嫁の件、私生児だという血筋の問題。
そういう“重い言葉”は、さすがに侍女たちの間には回ってこない。
けれど、その代わりに広まるのは、もっと身近で、もっと刺さる噂だ。
華やかな式を挙げていないこと。
宝石や華美な服装を控えていること。
夜ごと、大公と妃が別々の部屋で過ごしていること。
事実だけを拾い集めて、好き勝手な意味を与える。
それが、噂というものだった。
ヒストリアは、膝の上で指を組み直した。
結婚したからといって、すぐに同じ寝室で過ごす必要はない。
自分がまだ、気持ちの整理をつけきれていないことも、セオドールは理解してくれている。
それなのに、それがまるで“距離”や“不和”の証のように語られていく。
昼下がり、回廊を歩いているときも同じだった。
「妃殿下って、あまり前に出られないのね」
「殿下の隣には釣り合わないとわかってるんじゃない?」
ヒストリアは足を止めなかった。
背筋を伸ばし、視線を前に向けたまま、通り過ぎる。
胸の奥が、ちくりと痛む。
これまで何度も浴びせられてきた言葉だ。
だから、耐えられないわけではない。
それでも、城の中の冷たい視線は、気にならないといったら嘘になる。
「…母がいたら、怒られちゃうな」
誰にも聞こえないほどの小さな声で、そう呟いた。
『人の口は止められないけど、あなたの生き方まで決めさせる必要はないわ。自由でいいの』
ペンダントの赤い石に手をやると、母のそんな声が聞こえた気がした。
その夜、ノルディア城の回廊が静けさに包まれる頃、ヒストリアは寝室で就寝の支度をしていた。
背後では、侍女の一人が丁寧に髪を乾かし、もう一人が寝巻きを整えている。
二人とも、どこか憤った様子だった。
「本当に、失礼な噂です」
「宝石をお付けにならないのは、殿下に贈られていないからだなんて…!」
ヒストリアは苦笑する。
「そんなこと、ないのにね」
衣装部屋の扉は半分開いていて、中には宝石箱や装飾品が並んでいる。
煌びやかな首飾り、耳飾り、腕輪、どれも一国の大公妃にふさわしい、豪奢なものばかりだ。
「明日の朝の身支度で、思い切りお付けになりませんか?噂なんて一気に吹き飛びますよ」
冗談めかして言う侍女に、ヒストリアは首を振った。
「舞踏会でもないし、どこかへ出かける予定もないのに、城の中でそんなに派手にする必要はありません」
そう言ってから、少しだけ柔らかく微笑む。
「でも…、時と場合によるので、必要な時にはお願いします」
侍女たちはほっとしたように息をつき、最後の仕上げを終えた。
その時、控えめに扉を叩く音が響いた。
「入るぞ」
扉の向こうから、低い声がする。
侍女たちは顔を見合わせ、にこりと笑って一礼した。
「では、失礼いたします、ヒストリア様」
扉が閉まり、部屋にはヒストリアとセオドールだけが残された。
「変わったことはないか」
セオドールはそう尋ねながら、部屋を見回す。
「…何もありません」
嘘ではない。
少なくとも、彼に心配をかけるほどのことではないと思った。
少し間を置いてから、ヒストリアはぽつりと聞いた。
「…殿下。服や装飾品って…、やっぱり、華美な方がいいんでしょうか」
セオドールは即座に答えた。
「着たいものを着ていればいい」
それは迷いのない声音だった。
「大きな装飾品は苦手か?」
図星を突かれて、ヒストリアは小さく頷いた。
「はい…、重いですし…」
確かに、部屋に揃えられている装飾品は、どれも存在感のあるものばかりだ。
「…重い?剣は振り回すのにか」
セオドールがククッと声を出して笑う。
「…剣とは違いますっ…、それにつけてるとどこかにぶつけそうで…」
「なら、好みに合う物を買い直そう」
「えっ、いえ!そんなことにお金を使うことはありません…っ、必要な時にはちゃんとつけますので」
慌てて否定すると、セオドールはわずかに眉を上げたが、すぐに息をついた。
「そう言うと思った」
彼は懐から、小さな箱を取り出した。
「装飾品が苦手でも、これだけは常につけていてほしい」
箱が開かれる。
中に収められていたのは、主張しすぎない、落ち着いた意匠の指輪だった。
細い銀の輪に、小さな石がひとつ嵌め込まれている。
「左手を」
差し出されたセオドールの手を見ると、石はないが同じように細い銀の指輪がすでに薬指につけられている。
ヒストリアの左手を取ると、同じく薬指に指輪が嵌められた。
ひんやりとした金属の感触が、確かな温もりへと変わる。
「…ありがとうございます」
ヒストリアは、心から嬉しそうに微笑んだ。
その表情を見て、セオドールもまた、わずかに口元を緩める。
「よく似合ってる」
静かな夜の中で、二人の間にだけ、確かなものが残っていた。




