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79.ふたり



それから二週間後。


皇宮の一室には、旅支度の気配が静かに満ちていた。


窓際には既にまとめられた革鞄が二つ置かれ、テーブルの上には大公国へ持ち帰る書簡や封蝋が整然と並べられている。



「これで大体終わりですね」


ヒストリアがそう言って、鞄の留め具を確かめる。


声は穏やかで、表情もいつも通りだ。


「忘れ物はないか」


セオドールは窓の外を見たまま答えた。

冬の名残を残す空は、澄んでいて、やけに遠い。


「大丈夫です。…あ、神殿にお礼の手紙はもう出しました」


「ルーカスは何と言っていた」


「“形式ばるな”って。…それから、あの部屋はそのままにしておくように、と」



その言葉に、セオドールの視線がわずかに揺れた。


「あの部屋?」


「…母が、使わせていただいてた上層の部屋です。今後、誰かが使うのは構わないけど、しばらくはそのままにしてほしいとおっしゃってました」


「俺から兄上に頼んでおく」


「ありがとうございます」


ヒストリアは、淡々と答える。

まるで、すでに過去のものを指すような言い方だった。




沈黙が落ちる。

セオドールは、ようやく振り返った。


ヒストリアに一歩近づき、何も言わずに彼女を抱き寄せる。


ヒストリアは少し驚いたように瞬きをしたあと、小さく息を吐いた。


「…殿下、何をしているんですか?」


「妻を抱き締めているだけだが」


当然のことのように言われて、ヒストリアは思わず苦笑する。


「…そうですか」


拒むこともなく、彼女はその胸に身を預けた。

鎧も剣もない、ただの温もり。

その腕の中で、張り詰めていた何かが、ようやく緩む。


「…結婚式のあと、たった三日でした」


「…あぁ」


彼女は先回りするように、静かに続けた。


「式が終わって…、ほっとしたみたいで。糸が切れたみたいに、急に…」


言葉が、少しだけ途切れる。

それでも、彼女は俯かなかった。



「最期は眠るみたいに、静かでした。怒られましたよ。“泣いてばかりいないで、前を見なさい”って」


「…強いな」


「…はい。強い母でした」


「お前の事だ」


「いいえ」

ヒストリアは首を振った。


「悲しんでるだけじゃ、きっと怒られるって思っただけです。あの人、そういうところ厳しいので」


冗談めかした口調。

だが、その奥にある喪失は、隠しきれていなかった。



「…ありがとうございます」

小さな声で、そう言うと、セオドールは少しだけ腕に力を込めた。


「泣きたい時は、泣けばいい」


「…はい」


それでも彼女は、泣かなかった。

ただ、その温もりを胸に刻むように、静かに目を閉じる。


大公国へ帰る準備は、もう整っていた。

失ったものは戻らない。


けれど、彼女はもう独りではなかった。



大公国に向けて転移魔方陣を描こうとしたセオドールだったが、途中で手を止め氷竜を呼び出した。



空は澄み渡り、帝国の空も大公国へ続く道も、変わらず広く静かだった。


「急ぐことはない。国境あたりまで飛んでいこう」


セオドールが、いつもの低い声でそう言うと、氷竜がふたりを乗せて飛び立った。


「…殿下の氷竜、前より揺れが少ないですね」


「お前が慣れただけだ」


ぶっきらぼうな返事に、ヒストリアは小さく笑った。


沈黙が落ちる。

だがそれは、気まずいものではない。


風の音。

氷竜の羽ばたき。


そして、互いの存在を確かめるような、ふたり。


氷竜は、まっすぐに大公国との国境へと翼を向けた。




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