77.思い出の場所
氷竜は、ゆっくりと高度を落とした。
白い吐息を夜気に溶かしながら、降り立ったのは、帝都を見下ろす古い高台だった。
石造りの小さな祠と、風にさらされた低木しかない、ひどく静かな場所。
「…ここは?」
ヒストリアが尋ねると、セオドールは竜の背から降り、手を差し出した。
「昔、よく来ていた場所だ」
彼女が手を取ると、氷竜は低く鳴き、一歩距離を取って身を伏せる。
まるで、二人きりになる空気を理解しているかのように。
高台からは、帝都の灯りが遠くに見えた。
宝石を散らしたような光景なのに、ここには喧騒が届かない。
「…俺がまだ、帝国にいた頃、大公になる前の話だ」
セオドールは、祠の縁に腰を下ろし、空を仰いだ。
「皇宮で育った俺は、何もかもが息苦しくてな。人の視線も、期待も、肩書きも。人のことも全く信じられなくなっていた」
ヒストリアは、少し離れた場所に座り、膝を抱えた。
「ここに来ると、それらが全部、どうでもよくなった。空は広いし、風が冷たくて、俺が俺でいられるような気がした」
しばらく、沈黙が流れる。
風がヒストリアの髪を揺らし、騎士服の裾を鳴らした。
「…さっきの続きだ」
セオドールは、ゆっくりと彼女を見た。
「結婚が嫌か、俺が嫌いか、ではなく、お前自身が、どうしたいのかを聞きたい」
ヒストリアは、ぎゅっと拳を握った。
「…正直に、言ってもいいですか」
「ああ」
「…怖い、です」
ぽつり、と零れた声は、十八歳の少女のそれだった。
「大公妃なんて、聞いただけで息が詰まりそうで。ちゃんとできる自信もないし、失敗したらどうしようって…」
視線を落としたまま、言葉を続ける。
「でも…、」
そこで一度、深く息を吸った。
「殿下が、私を閉じ込めたり、飾り物みたいに扱わないってことは…、もう、わかってます」
顔を上げる。
青い瞳を、まっすぐ見つめて。
「言葉だけじゃなくて、行動で示してくれました。今だって、怖がってる私をちゃんと待ってくれてるし」
小さく、笑う。
「…だから、嫌いじゃないです。むしろ、その…、」
言葉に詰まり、耳まで赤くなった。
「…好意は、あります」
セオドールの目が、わずかに見開かれる。
ヒストリアは慌てて付け足した。
「た、ただし、すぐに“妻らしく”とか、“愛してます”とかは…、無理です!時間、ください…っ…」
必死な様子に、セオドールは一瞬黙り込み―――、
そして、優しく微笑んだ。
「それで十分だ」
立ち上がり、彼女の前に歩み寄る。
「俺は、最初から完璧な妃など求めていない。お前が、お前のままで隣に立つなら、それでいい」
そっと、頭に手を置く。
「迷いながらでいい。逃げたくなったら、逃げる先も俺が用意してやる」
ヒストリアは、くしゃりと顔を歪めて笑った。
「…ずるいですよ、そんな言い方」
「そうか」
「…あの、」
小さく頷く。
「…結婚、します。本当に私でいいなら…」
夜空の下、二人の距離は自然と近づいていた。
氷竜が、静かに翼を鳴らす。
帝都の灯りの上で、それは誓いではない、けれど確かな「始まり」だった。
*******
二人が皇宮へ帰ると、ヒストリアは一人、治癒塔の上層へと向かった。
白い回廊は昼間よりも静かで、足音がやけに大きく響く。
胸の奥に、小さく、しかし確かな決意を抱えたまま階段を上った。
扉を叩くと、ほどなくして中から、穏やかな声が返ってきた。
「…リア?」
「うん。お母さん、まだ起きてる?」
「ええ。どうしたの、こんな遅くに」
メイジーは寝台の上で身体を起こし、娘に微笑みかけた。
治癒の魔力で顔色は悪くない。
だが、目の奥に宿る影は、日に日に濃くなっているのをヒストリアは知っている。
椅子に腰を下ろし、しばらく言葉を探してから、ヒストリアは小さく息を吸った。
「…ね、お母さん」
「なあに?」
「結婚することにしたよ」
一瞬、時が止まったように感じられた。
メイジーは驚いたように目を見開き、それから、すぐには喜びの表情を浮かべなかった。
「…そう」
柔らかい声だったが、そこには慎重さが滲んでいる。
「無理をしてない?」
その問いかけに、ヒストリアは思わず笑ってしまった。
少し困ったように、少し照れたように。
「してる、かも」
「……」
「すごく怖い。何もかもが大きすぎて、私なんかがいていい場所じゃないって、今でも思う」
指先が、無意識にシーツを掴む。
「でもね…、逃げたいだけじゃないって、思えたの」
メイジーの目が、ゆっくりと細められる。
「守られてばかりじゃなくて、一緒に立っていたいって。それに…、ちゃんと私を見てくれてる人だって、思えたから」
言い終えると、胸の奥がじん、と熱くなった。
メイジーは、何も言わずに手を伸ばし、娘の手を包む。
少し冷たいが、確かな温もり。
「…それで十分よ」
静かにそう言って微笑む。
「怖くない道なんて、最初からないもの。それでも自分で選んだなら、それは立派な覚悟よ」
ヒストリアは、ぎゅっと握り返した。
「…ありがとう」
その時だった。
メイジーが、ほんのわずかに顔をしかめる。
「…お母さん?」
「大丈夫。ただ、少し…息が…っ」
胸元に手を当て、深く呼吸をする。
その仕草は、ほんの一瞬だったが、ヒストリアの心臓を強く締めつけた。
「…すぐ治まるわ。心配しないで」
そう言って微笑むその笑顔が、なぜか、ひどく遠く感じられた。




