76.空中散歩
夜の皇宮は、昼間の活気が嘘のように静まり返っていた。
白い月光が石造りの回廊と宮殿を淡く照らし、風が高い場所を抜けていく。
その石壁の上に、ひとり腰を下ろしている影があった。
「……」
セオドールは足を止める。
よく知る気配。
だが、服装が違う。
ヒストリアは、騎士団の隊服を身にまとっていた。
深い色の上衣に、簡素な装飾。
身体に馴染んだそれは、ドレスよりもずっと自然で、着慣れていることがよくわかる。
「…何をしている」
声をかけると、ヒストリアは驚いたように肩を跳ねさせた。
「…殿下」
振り返ったその顔は、夜風にさらされて少し冷えているように見えた。
セオドールは無言のままあっというまに壁を上ると、彼女の隣に腰を下ろした。
「なぜ、そんな格好を?」
ヒストリアは少し迷ってから、正直に答えた。
「服は…、ミレイユ様にお願いして用意していただきました」
「それは分かる。なんで騎士の服なんだ?」
ヒストリアは、石壁の向こう、夜の闇に沈む皇都を見つめる。
「…もう、着ることはないんだろうな、と思いまして」
ぽつり、と落とされた言葉。
セオドールは眉をひそめた。
「だから、最後に着ておこうかなって」
そう言って、ヒストリアは小さく笑った。
その笑みが、どこか諦めに近いものだと、セオドールはすぐに理解した。
「…話がある」
彼は立ち上がり、夜空を見上げる。
「散歩に誘うつもりだったが、その格好ならちょうどいい」
「散歩…ですか?」
「いや、歩くのはやめた」
セオドールが片手を伸ばすと、冷たい魔力が空気を震わせた。
次の瞬間―――、
月明かりを切り裂くように、氷の鱗を持つ巨大な竜が姿を現す。
「…っ、」
ヒストリアは息を呑む。
いつか、大公国で見た氷竜だ。
「乗れ」
差し出された手を、ヒストリアは迷いなく取った。
次の瞬間、二人は氷竜の背に乗り、夜空へと飛び立つ。
風が頬を打ち、皇宮の灯りが遠ざかっていく。
星が近い。
「…結婚が、嫌か」
突然、セオドールが切り出した。
ヒストリアは一瞬、言葉を失う。
「……嫌、というか……」
曖昧に言葉を濁す。
「では、」
セオドールは、真正面から続けた。
「俺が、嫌いなのか」
ヒストリアは慌てて首を振った。
「そ、それは…違います」
はっきりと否定できず、けれど否定したい気持ちは確かだった。
セオドールは、少しだけ目を細めた。
「ならいい」
氷竜が旋回し、静かな空を進む。
「結婚したからといって、自由を奪うつもりはない」
ヒストリアは、耳を澄ます。
「兵士として、命を賭ける任務に送ることはできないが…。ただそれだけだ」
「……」
「稽古をしたければすればいい。剣を持ちたいなら、俺が相手をする」
低く、揺るぎない声。
「できないことは、何もない」
ヒストリアは思わずセオドールの顔を見る。
「俺は…、」
セオドールは、夜空を見据えたまま続ける。
「お前の、物怖じしないところが好きだ。守られるだけで終わらないところも」
ヒストリアの胸が、どくん、と鳴る。
「おとなしく隣に飾られている妃など、俺はいらない」
そこで初めて、セオドールは彼女を見る。
「…お前だから、側にいてほしい」
しばしの沈黙。
次の瞬間、ヒストリアの顔が、火がついたように赤く染まった。
「な、なんで…っ…!」
声が裏返る。
「なんでこんな場所で、そんな…、告白みたいなこと言うんですか…っ」
「場所に意味はない」
あまりに真顔で言うものだから、ヒストリアは返す言葉を失った。
氷竜の羽ばたきだけが、夜に響く。
ヒストリアは、胸元を押さえながら、必死に視線を逸らした。
こんな空の上で、逃げ場もなく。
しかも、こんな真剣な声で。
「…殿下、ずるいです…」
小さく呟いた声は、風に紛れて消えた。
セオドールは、それを聞き逃さなかったが、何も言わなかった。
ただ、氷竜を少しだけ高く飛ばした。
星の中へ、二人きりで。




