75.婚礼の準備
メイジーの願いを聞いた夜、ルーカスは誰にも告げず、神殿の奥にある私室に籠もった。
灯りをひとつだけともし、机の上には、神殿の正式な婚姻文書と、帝国の古い儀式の記録がある。
大神官として、偽りの誓約を立てることはできない。
それは神に背く行為であり、自分が積み上げてきたすべてを否定することになる。
「…娘の花嫁姿を見たい、か」
煙管を置き、ルーカスは深く息を吐いた。
死を悟った母が、最期に望むもの。
それが、娘の娘の幸福な未来の象徴だというなら、叶えてやろう。
「…まったく。親というものは、子に弱い」
書類を閉じ、決意する。
神殿の長、大神官として。
そして祖父として。
「…仕方ない」
誰もいない室内で、ぽつりと呟いた。
「本当に、仕方ないから認めてやる」
*******
翌朝、セオドールは皇宮の回廊で、呼び止められた。
「…おい、クソガキ」
振り返ると、いつものように腕を組んだルーカスが立っている。
「…朝から喧嘩を売っているんですか?」
警戒を隠さないその態度に、ルーカスは一瞬だけ目を細めた。
「結婚式を挙げろ」
「…は?」
セオドールが、珍しく言葉を失った。
「聞こえなかったか?耳が凍ってるなら治療してやろうか?」
「いや、そうじゃない。なぜ急に――…」
「…メイジーが、」
ルーカスは、静かに言う。
「ヒストリアの花嫁姿を見たいと望んでいるからだ」
セオドールは、言葉を飲み込んだ。
「俺は神官だ。神殿に仕える者として、嘘の式は挙げられない」
金色の瞳が、まっすぐにセオドールを射抜く。
「ヒストリアの事を傷つけず、一生守ると誓うなら、婚姻を正式なものとして認めてやる」
「…必ず守る」
「ならいい」
ルーカスは踵を返す。
「式は小さくていい。皇宮の大聖堂で行うとレオンハルトに伝えろ。余計な貴族も呼ばない。必要なのは――」
一拍、間を置いて。
「母親の目と、神の前で誓う覚悟だけだ」
その日の午後、皇后ミレイユの私室に、一本の正式な要請が届けられた。
差出人は、大神官ルーカス。
内容を読み終えた瞬間、ミレイユはぱっと顔を輝かせた。
「えええぇーーーーー!!!」
侍女たちが一斉に身構える。
「こ、皇后陛下…?何かございましたか?」
「急ぎの婚礼よ!しかも花嫁は、あのリア!!」
両手を合わせ、目をきらきらさせる。
「素敵じゃない!さすが、ルーカス様!こうしちゃいられないわ。急いで準備するわよ!!」
数刻後、ヒストリアが滞在している部屋の扉が、勢いよく開いた。
「失礼するわね!」
現れたのは、満面の笑みの皇后ミレイユだった。
「リア、また会えて嬉しいわ!あなたの花嫁衣装は私に任せてね」
「ミレイユ様…?…え?」
ぽかんとするヒストリアに、ミレイユはずいっと距離を詰める。
「遠慮なんてしないで。人生で一番大事な日よ?」
その背後で、ルーカスが腕を組み、ぼそりと呟いた。
「…ヒストリアには今話したばかりだ。張り切りすぎるな。本人が潰れる」
「大丈夫です、ルーカス様。ちゃんと、リアらしさを残しますから」
ミレイユはそう言って、ヒストリアの手を取った。
「ねえ、リア。お母様に、綺麗な姿を見せてあげましょう?」
ヒストリアの胸が、きゅっと締めつけられる。
母が、自分の花嫁姿を見たいと言っていると、ルーカスが伝えに来た。
おそらく、これが最期の願いになるかもしれないと、ヒストリアは心のどこかで覚悟していた。
小さく、けれど確かな決意を込めて頷く。
「…はい」
その様子を、廊下の向こうから見ていたセオドールは、静かに目を伏せる。
*******
柔らかな光が差し込む皇宮の一室は、いつもより少しだけ華やいでいた。
長机の上には、純白の布地や淡い銀糸の刺繍が施されたレース、色とりどりの花々が並べられている。
香油と花の甘い匂いが、空気に溶けていた。
「さあ、リア。次はこれを合わせてみましょう」
張り切った様子で声をかけるのは、皇后ミレイユだった。
普段の穏やかな微笑みに、今は明らかな楽しさが滲んでいる。
「…は、はい」
ヒストリアは少し戸惑いながらも、差し出されたドレスに手を伸ばした。
淡い白に、わずかに青みを帯びた光沢。
氷を思わせる色合いは、ノルディア大公国を象徴するものだった。
「まあ…、お綺麗です」
ドレスを身に纏ったヒストリアを見て、侍女たちが小さく息を呑む。
「やっぱり、似合うわね。顔立ちが優しいから、こういう清楚なものが映えるわ」
ミレイユは満足そうに頷き、ブーケを手に取った。
白百合と小さな青い花を組み合わせた、控えめだが気品のある花束だ。
「これはね、花言葉が“誠実”と“守護”。今のあなたにぴったりだと思ったの。本番の日にも私がブーケを作るからね」
「…ありがとうございます」
微笑もうとして、ヒストリアはほんの一瞬、視線を落とした。
その変化を、ミレイユは見逃さなかったが、あえて何も言わない。
その時、控えめなノックの音が響いた。
「入るぞ」
低く落ち着いた声と共に、皇帝レオンハルトが顔を出す。
「レオン、ちょうどいいところに」
「邪魔だったか?」
「いいえ、見てください、リアを」
ミレイユが誇らしげに示すと、レオンハルトは一歩中へ入り、ヒストリアを静かに見つめた。
「…よく似合っている」
短いが、心からの言葉だった。
「ありがとうございます、陛下」
ヒストリアは丁寧に頭を下げる。
その様子を見て、レオンハルトはふと眉を寄せた。
侍女がベールをいくつか手に持ち、ヒストリアに合わせているのを見計らって、離れたところでミレイユに声をかける。
「…なあ、ミレイユ」
「なに?」
「ヒストリアは…、どこか浮かない顔をしていないか?」
ミレイユは、ぴたりと手を止めた。
「当たり前でしょう」
きっぱりとした声音だった。
「お母様の容態が安定しないのに、花嫁衣装を着せられて、心から笑える十八歳の娘がいると思う?」
レオンハルトは、言葉に詰まる。
「…そうだな、すまない」
「謝る必要はないわ。ただ、あの子は無理をしている。それだけ」
ミレイユはヒストリアに優しい視線を向け、そっと見守る。
しばらくして、レオンハルトは部屋を辞した。
廊下に出ると、壁にもたれるように立っていた人物がいる。
「兄上」
セオドールだった。
「様子はいかがでしたか?」
「今、衣装合わせ中だ。ミレイユが張り切ってる」
レオンハルトは一度言葉を切り、周囲に人がいないのを確かめてから、声を落とす。
「…セオ」
「何でしょう」
「ヒストリアは、…本当は、結婚を迷っているんじゃないか?」
セオドールの表情が、わずかに強張った。
「それは……」
即答できず、視線を逸らす。
レオンハルトは続けた。
「責任や立場ではなく、あの子自身の気持ちだ。母のこと、国のこと、いろいろ背負いすぎてるのかもしれない」
沈黙が落ちる。
やがて、セオドールは低く息を吐いた。
「…迷っていないと言えば、嘘になります」
「だろうな」
「だが、」
セオドールは拳を握りしめる。
「それでも俺は、あいつを手放すつもりはありません」
その声音は、揺れていなかった。
レオンハルトは弟を見つめ、静かに頷く。
「ならば、覚悟を示せ。言葉が足りないのは、昔からだぞ」
「…分かっています」
セオドールは短く答えた。
その先で、扉の向こうから聞こえる、ミレイユの明るい声と、ヒストリアのかすかな笑い声。
その音が、今は少しだけ、胸が痛かった。




