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74.母の願い




帝国へ向かう道中、森を抜けた小高い丘でルーカスは立ち止まった。


「ここだ」


足元の地面に、白く淡い光が走る。

複雑な紋様が幾重にも重なり、古代語の祝詞が刻まれた魔方陣だった。



「…転移、ですか?」


ヒストリアが息を呑む。


「神殿まで直通だ。俺が丁寧に作ったから揺れも少ないし、身体にも負担はかけない」


そう言いながらも、ルーカスの指先は慎重だった。


最後にもう一度、一画一画を確かめるようにしてから神力を注ぎ込む。




「お母さん、少しだけ目を閉じて。すぐ終わるから」


ヒストリアはメイジーの手を両手で包み込む。


「…大丈夫よ、リア」


微笑もうとして、わずかに咳き込む。


その仕草に、セオドールの眉が僅かに寄った。

魔方陣が完全に起動すると、世界が一瞬、白に溶けた―――…



次に視界が戻ったとき、そこは帝国神殿の奥、誰も立ち入らないルーカスの私室だった。


「成功だ」


ルーカスが短く言う。


本来なら、ここからノルディア大公の屋敷へ向かうはずだった。


しかし、ここでセオドールが口を開く。


「兄上に連絡する」



「…レオンハルトに?」


ルーカスは一瞬、目を細めたが、否定しなかった。


「治癒塔か」


「帝国内のどこよりも、皇宮の治癒塔が一番適している」


セオドールは空中に通信用の小さな魔方陣を描いた。




*******

帝国皇宮・治癒塔―――


白い石で造られた円塔は、圧倒的な規模と魔力を誇っている。


皇帝レオンハルトの許可は即座に下り、メイジーは最上階へ運ばれ、そこからは、ルーカスの独壇場だった。



「…神力、全開で行く」


幾重にも張り巡らされた結界と魔方陣。

空気が震え、光が脈打つ。


ヒストリアは部屋の隅で、ただ祈ることしかできなかった。


セオドールは、黙って彼女の隣に立ち続ける。




数日が過ぎても治癒塔の光は衰えず、神殿の神官たちも総動員された。



それでも、


「…回復が、見られない」


ルーカスが低く呟いたのは、四日目の夜だった。


額には、明らかな疲労の色。

それでも声は冷静で、だからこそ重い。


「治癒が拒まれているわけじゃない。だが…」


言葉を選びながら、心の中で呟いた。



(生命そのものが、もう…)


それ以上は、言わなかった。


セオドールは一瞬、隣で座ったまま眠っているヒストリアに目をやると、拳を握りしめ、ゆっくりとルーカスの側まで行く。



「…限界、かもしれない」


「…ああ」


ルーカスは、治癒塔の中央に横たわるメイジーを見つめる。


「…延ばすことはできる。…だが、取り戻すことができない」


大神官としてではなく、祖父としての言葉だった。



ヒストリアには、まだ言えない。


彼女はこの四日間、ほぼ寝ずに治癒塔の雑用をこなしながら母の様子を見守っている。


横になって少し休むように言ったが、「お母さんとリュカ様が頑張ってくださってるのに私が眠るなんてできない」と、気丈に頑張っていた。



先程、椅子に腰かけたところで、セオドールがわからないように弱い睡眠魔法をかけてようやく眠ったのだ。



ヒストリアの信じる時間を、奪うことだけはできなかった。


治癒塔の光が、静かに、変わらず灯り続けている。


それが、残された時間を刻む砂時計のように見えて、ルーカスは目を伏せた。



「…できることなら、代わってやりたい」


ポツリとこぼしたルーカスの本音は、セオドールにだけ聞こえるほど小さな声だった。





*******

皇宮にある聖堂の奥は、昼でも薄暗かった。


高い天井に灯る聖灯が、淡い光を落とすだけの静かな回廊。

その突き当たりにある小さな祈祷室で、ルーカスは懺悔をするようにひとり膝をついていた。



(…間に合わなかった)


額を床に押しつけ、肩がわずかに震える。


神殿に仕える者として、幾千もの命を見送り、救い、延ばしてきた。

その誇りも経験も、今は何の慰めにもならない。



治癒塔―――

帝国でも最高位の設備。


メイジーが眠る寝台の下に刻んだ、己の全神力を注ぎ込んだ魔法陣。


しかし、彼女の命はわずかに()()()ことしかできない。


この方法は、病気を根治させるものではなく、ルーカスを含めた神官達の莫大な神力を消費してようやく成り立っていた。


自分の神力がたとえ枯渇しようが、体力を根こそぎ奪われようが、ルーカスはどうでもよかった。


問題は、それだけ治癒にかけているのに、一向にメイジーの病状がよくならないことだった。


神力や魔力による治癒は、重い病には効かない。


わかっていることだが、ルーカスはやっと出会えた家族を前に、その現実が受け止められず気いたのだ。




「…情けないな」


喉の奥から、掠れた声が落ちる。


酒場の女の子どもとして生まれ、神力だけを頼りに生き延び、帝国の大神官にまでなった。


その人生で、今最も救いたい相手を救えない。

煙管も、杖も、今日は手に取る気になれなかった。



その時、


「…リュカ様」


背後から、そっと声がした。



振り返ると、ヒストリアが立っている。


泣き腫らした様子も見せず、けれど、どこか大人びた目で、まっすぐこちらを見ている。




「…どうした?母に何か―――…」


「いいえ。でも…、わかります」


ヒストリアは一歩近づき、深く頭を下げた。


「お母さんを、連れてきてくれて…、ここまで生かしてくれて…、本当に、ありがとうございました」


その言葉が、胸に突き刺さった。


「…礼を言われるようなことはしてない」


「そんなことありません」


ヒストリアは首を振る。



「もし、リュカ様がいなかったら、お母さんは今頃フェルバールの塔で、ひとりで…」


そこで言葉を切り、きゅっと唇を噛んだ。


その姿に、ルーカスは思わず目を伏せる。



(…母親の状態をすでに理解しているのか)



「…お前は、強いな」


「強くなんてないです」


「いや」


ルーカスは、低く続けた。


「俺は弱い。お前を前にしていても、泣きだしてしまいそうだ」


ヒストリアは驚いたように目を見開き、そして、少し困ったように笑った。



「…そんなの、人間なんだから当たり前です」


その言葉に、かつて神殿でソフィアが同じ事を言っていたのを思い出し、やはりこの娘は間違いなくソフィアの血を引いているんだと実感させられる。



今の状況を彼女が見たら、きっと怒るだろう。

なぜ、自分にできることをしないのか、と。



残された時間で、できる限りのことをしよう。

それだけが、今の自分に許されることだった。




その日の午後、ルーカスはひとりで、治癒塔の上層にある部屋を訪ねた。


窓辺に置かれた椅子に、メイジーが座っている。


一時的ではあるが、治療の効果で顔色はよく、穏やかな笑みさえ浮かべていた。


「…来てくださったんですね、大神官様」


「調子はどうだ」


「不思議なくらい、楽になりました」



それが“延命”だと、互いにわかっている。

だからこそ、無駄な言葉は交わさない。


ルーカスは椅子の横に立ち、しばらく黙ってから口を開いた。



「…何か、してみたいことはないか」


メイジーは瞬きをして、少し考え込む。


「見てみたいもの、とか…、行きたい場所なんかでもいい」


「…ひとつだけ、お聞きしてもいいですか?」


「なんだ?」


彼女は、窓の外に広がる帝都の空を見つめたまま、静かに言った。


「大公妃なんて、恐れ多くて…。あの子、ちゃんと幸せになれるんでしょうか」


少しだけ、不安そうに微笑む。


ルーカスは、即座に答えた。


「大丈夫だ」


低く、だが迷いのない声。


「あの大公にはもったいないほど、強くて優しい子だ」


メイジーは目を細め、ふっと息を吐いた。


「…そうですか」


「泣かせるような真似でもしたら、俺が神殿の泉に深く沈めてやる」



それだけで、十分だった。


「…夢があったんです」


「なんでも言え。俺が絶対に叶えてやる」



「…死ぬ前に、」


その言葉に、ルーカスの指先がぴくりと動いた。


「…ヒストリアの、花嫁姿が見たいです」


沈黙が落ちる。



ルーカスは、何も言わずただ静かに頷いた。


胸の奥で、決意が固まる。


――ならば、その願いは、必ず叶えよう。

どんな手を使ってでも。


残された時間すべてを賭ける。


金色の瞳には、弱さなど欠片も残っていなかった。



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