73.気持ち
西の塔では、王の私室で起きたの喧騒が嘘のように静かだった。
部屋に唯一ある小さなランプが、簡素な寝台を照らしている。
ヒストリアはその脇に腰を下ろし、母、メイジーの手を両手で包んでいた。
「…お母さん、寒くない?」
「大丈夫よ」
メイジーは微笑み、娘の指をそっと握り返す。
その仕草は弱々しいのに、どこか懐かしい温もりがあった。
少しの沈黙のあと、母がふと視線を逸らしながら口を開く。
「…ねえ、リア」
「なに?」
「…大公殿下との婚姻だなんて…本当なの?」
ヒストリアは、一瞬息を詰めた。
胸の奥に、言葉にできない感情が渦を巻く。
「…最初は、怖くて…、」
ぽつりと零れた声は、十八歳の少女そのものだった。
「何もわからないまま大公国に送られて、最初に殿下にお会いした時は、すごく冷たいし怖いし、何を考えてるか分からなくて、私なんてすぐに殺されてしまうんじゃないかって…」
指先が、無意識に母の手を強く握る。
「…でも」
ヒストリアは、少しだけ困ったように笑った。
「言葉は足りないし、不器用だし、たまに、ほんとに怒ってることもあるけど…」
脳裏に浮かぶのは、セオドールの姿。
不機嫌そうな表情をしながら、常に国や家臣の事を考えている。
「…私が傷つきそうになると、必ず助けてくれるの」
「……」
「…元々この婚姻も、私を助けるために結んでくださったもので…」
それは、甘い言葉ではない。
けれど、逃げ場のない現実の中で、何よりも強い約束だった。
「気づいたら…、」
ヒストリアは、少しだけ視線を落とす。
「怖いより、安心するほうが多くなってて…
」
自分でも驚くほど、素直な言葉だった。
メイジーは、ゆっくりと目を細める。
「…恋、してるのね」
「こ、恋っ…!?」
ヒストリアは頬を赤くする。
「そ、そんなんじゃ…っ」
「いいのよ」
母は、娘の手を包み直した。
「自分の気持ちに無理に名前をつけなくても。ただ、リアが笑って過ごせるだけで、お母さんは満足だわ」
その声は、穏やかで、どこか安堵に満ちていた。
「…お母さん」
「リア」
メイジーは、かすかに息を整えながら言う。
「あなたが選んだ道なら、どんな形でも、お母さんは応援するからね」
ヒストリアの胸が、きゅっと締めつけられる。
「…うん」
小さく、けれどはっきりと頷いた。
「私、ちゃんと…、自分の気持ち、考える」
母の手を握りしめると、そっと握り返してくれる。
メイジーは、美しく成長した娘の顔を見て満足そうに微笑むと、眠りについた。
*******
明け方、西の塔の窓から差し込む光は、とても弱々しかった。
ヒストリアは、寝台の傍らでメイジーの手を両手で包んだままいつのまにか眠ってしまっていた。
朝日に気付いて起きると、自分に羽織りがかけられていることに気付く。
(…お母さん、私のことなんて気にしなくていいのに)
それは、娘の体が冷えないようにとの母の優しさだった。
細く、熱のない指。
握り返してくれる力は、昨日よりも少し弱い。
「…リア…?」
「…おはよう、お母さん」
「…おはよう」
そう言いながら、メイジーは小さく息を吸い、ゆっくり吐いた。
その呼吸が、微かに乱れていることに、ヒストリアは気づいてしまう。
(…昨日の夜は、こんなじゃなかった)
胸の奥が、嫌な音を立てて軋んだ。
「リア…、」
「なに?」
呼ばれて顔を近づけると、母は申し訳なさそうに笑った。
「ちょっと、疲れただけよ。ほら、久しぶりに人と話したから。だからそんな心配そうな顔しないで」
無理をしている、とすぐにわかる声音だった。
ヒストリアは何も言えず、ただその手を強く握り直す。
指先から伝わる温度が、少しずつ遠ざかっていくようで、怖かった。
そこへ、控えめな扉を叩く音。
「…入るぞ」
セオドールの低い声だった。
扉の向こうには、セオドールとルーカスが並んで立っている。
二人とも、いつもより表情が硬い。
「…リュカ様?」
ヒストリアが立ち上がると、ルーカスが一歩前に出た。
「メイジーの治癒に来た」
その声は穏やかで、ヒストリアは逆に不安になる。
「ヒストリア。少し、外に出られるか?」
セオドールの言葉にメイジーの方を見ると、
「行ってきなさい」
微笑んで頷いてくれる。
「…すぐ戻るね」
そう言い残して部屋の外に出ると、空気がひやりと冷たかった。
扉が閉まるのを確認してから、セオドールは小さく息を吐く。
「…大公国へ連れて行くのは無理だ」
単刀直入だった。
ヒストリアの喉が、きゅっと縮む。
「…そんな…っ、なぜですか?」
「時間がかかりすぎる」
責めるようなわけでも、冷たいわけでもない。
ただ、現実だけを見据えた声。
「大神官の見立てだ。移動の負担に、母上の身体が耐えられない」
ヒストリアは、唇を噛みしめた。
「…じゃあ…」
言葉が、続かない。
セオドールは視線を落とし、しばし黙ってから言った。
「帝国へ行こう」
「…え?」
「この前も滞在した、俺の屋敷だ。その方が、移動距離も短いし、大神官の治療も受けやすい」
それは、最善であり、同時に最後の選択であるかのような響きだった。
ヒストリアは、震える指を握りしめる。
「…助かる、んですよね?」
縋るような問い。
セオドールは、少しだけ間を置いてから答えた。
「できることは全てやる」
否定しない。
だが、肯定もしない。
その曖昧さが、胸に突き刺さる。
「ヒストリア」
セオドールが、静かに名を呼んだ。
「…今は、泣くな。母上が心配する」
その言葉で、目に涙が溜まっていることに気がついた。
ヒストリアは、小さく頷く。
「…はい」
扉の向こうで、母が待っている。
“大丈夫だよ”と、笑顔で戻らなければならない。
ヒストリアは深く息を吸い、胸の奥に込み上げる不安を押し込めた。




