71.再会
西の塔は、王城の奥深くにひっそりと立っていた。
装飾もなく、威光もなく、ただ閉じ込めるためだけに存在しているような、冷たい石造りの塔だった。
「…ここです」
ヒストリアが塔を見上げる。
大公国に行く前にもここに来た。
母に別れを告げるために来た同じ場所に、今度は母を迎えに来ることになるとは思っていなかった。
病の治療のために、どこか別の場所に移っていると思っていたヒストリアにとって、見るだけで涙が滲みそうになる。
塔への訪問について、王の許可はあまりにもあっさり下りた。
帝国の大神官が「私的な視察」と言えば、拒めるはずもない。
同行者は最小限、フードを深くかぶったセオドール、そしてヒストリアだけ。
塔の中は、外よりもさらに冷えていた。
湿った石壁、薄暗い回廊。
人の気配が感じられず、空気が澱んでいる。
最上階近くの小部屋の前で、番兵が鍵を外した。
ギィ……と、重い音を立てて扉が開く。
その瞬間、ヒストリアの喉から、声が漏れた。
「…お母さん…っ…」
部屋の奥、簡素な寝台に横たわるひとりの女性。
頬はこけ、肌は青白い。
だが、間違えようもなかった。
「……リ…ア…?」
掠れた声が、確かに娘の名を呼んだ。
ヒストリアは、気づけば駆け寄っていた。
膝をつき、母の手を握る。
「お母さん!どうして…っ、」
ヒストリアの母、メイジーは震える指で、娘の頬に触れた。
「…よかった…、無事なのね…」
大公国に贈られたヒストリアを、メイジーもまたひどく心配していたのだ。
そのやり取りを、ルーカスは少し離れた位置から見ていた。
表情は変えず、だが金色の瞳は鋭く、深く、メイジーの状態を見据えている。
「…少し、触れるぞ」
そう言って、ルーカスはメイジーの傍らに立った。
杖も詠唱もいらない。
指先が淡く金色光り、神力が静かに流れ込む。
空気が揺れ、重苦しさが一瞬だけ薄れる。
メイジーの呼吸が、わずかに整った。
「…あ…温かい…」
「少しは楽になったはずだ」
ルーカスは、淡々と言った。
ヒストリアが、希望に縋るように顔を上げる。
「お母さん、このお方は帝国の大神官様で、きっとお母さんの病気も診てくださるはずだから」
「…まぁ…、そんな高貴なお方に…、」
彼はゆっくりと、ヒストリアの肩に手を置く。
「…母親の手を握ってやれ」
「え…?」
「安心するだろう?」
ヒストリアは言われるまま、母の手を両手で包む。
「…リア」
メイジーが、微笑んだ。
「…そのペンダント…、つけてくれてるのね…」
ヒストリアは、胸元に指をやった。
赤い石のネックレス。
大公国に行く際、母から渡されたもの。
「…うん。お母さんも、お母さんのお母さんからもらったものなんでしょ…?」
「…ええ、そうよ」
メイジーの視線が、遠くを見る。
「私の、おばあさまは…、どんな方だったの…?」
少し間を置いて、メイジーは答えた。
「…優しい人だったわ…。でも、私が十代の頃に、流行り病で亡くなってしまって…」
「…おばあさまの、お名前は…?」
その問いに、メイジーは、かすかに微笑った。
「…リュカ…よ」
その瞬間――、
部屋の空気が変わり、ルーカスの指が、震える。
「…リュカ…?」
ルーカスは、ゆっくりと膝をついた。
床に、手をつく。
「…そうか…」
声が、掠れた。
「…あの子は…、」
金色の瞳から、静かに涙が落ちる。
「…ソフィアは、…俺の名を…つけたのか…」
嗚咽を噛み殺すように、額を床に押しつける。
「…なぜ…あの時探さなかった…ッ…」
帝国の大神官として、何十年も生き、数えきれぬ別れを見てきたルーカスが、この瞬間だけは、ただの父親だった。
ヒストリアは、母の手を握ったまま、その背中を見つめる。
セオドールは、何も言わず、ただ黙って立っていた。
塔の中で――、
長い年月を隔てて、ようやく辿り着いた真実が、それぞれの胸に重く落ちる。
メイジーの呼吸が落ち着いた頃、ルーカスが寝台の側に座り、彼女の黒髪にそっと手を置いた。
「…黒い髪に、赤い目。まるでソフィアを見ているようだ」
「…ソフィア…?」
メイジーが不思議そうな顔でルーカスを見上げる。
「…この姿では信じられないだろうが、お前の母、リュカは俺の娘だ」
「えっ…?」
「一度も見ることはできなかったが…」
「…お母さん、私も最初は信じられなかったけど、このペンダントも大神官様が作られたものなんだって」
「…そんなことが…」
「“リュカ”というのは、俺の昔の名だ。ソフィアはお前の祖母にあたる。神殿から逃げ延びて産んだ子どもに、…俺の…、名前を…」
最後は声が震えていた。
「…俺の孫をこんな目に遭わせ、曾孫を平気で人質に送るような男を、絶対に許さない」
「…人質…、そういえば、リアはなぜ無事に戻ってこられたの?…お母さんは、あなたが大公国で…殺されてしまったんじゃないかって、…それだけが心配で…っ」
「…それは―――」
答えようとしたヒストリアを、セオドールがやんわり肩を掴んで制止する。
セオドールは、メイジーの寝台の前まで行くと、被っていたフードを脱ぎ、顔のベールを外した。
そのまま床に跪き、深青の瞳をメイジーの視線と合わせる。
「セオドール・ヴァル=ノルディアといいます」
「…ノルディア…?」
メイジーの赤い目は、明らかに戸惑っている。
「ノルディア大公国の、贈り物の花嫁という馬鹿な制度のせいで、貴女と娘さんを引き離すようなことになってしまい、申し訳ありません」
「…あな…たは、まさか、…大公…様?」
「はい」
「…あの…っ、娘は何も悪くありません…っ、どうか、娘の命を―――…」
掠れる声で懇願するメイジーに、セオドールは一瞬も視線を逸らさなかった。
「命を奪うつもりなど、最初からありません」
きっぱりと、しかし穏やかに言い切る。
その声に、ヒストリアの肩がわずかに揺れた。
「むしろ、守るために一緒に来ました」
メイジーの瞳が、ゆっくりと見開かれる。
「…守る…?」
「貴女の娘、ヒストリアは今、俺の妻です」
「えっ…?それは一体―――」
ヒストリアが息を呑む音が、静かな塔の中に落ちた。
「俺は、身分で人の価値を決めません。貴族でも平民でも関係ない。ヒストリアは、ヒストリアとして尊重します」
メイジーの赤い瞳が戸惑う。
「…そんな…、本当に…?」
「本当です」
迷いのない答えだった。
「貴女が案じているような扱いは、一切受けていません。傷つけられることも、何に恐れる必要もない。俺が許しません」
その言葉は、誓いのようだった。
セオドールは視線を少しだけ和らげ、続ける。
「ヒストリアは、強い人です。誰かのために泣ける。誰かを守ろうとする。だからこそ俺は、彼女を気に入っています」
ヒストリアの胸が、きゅっと締めつけられる。
メイジーは、震える手で布団を握りしめながら、娘を見る。
「…リア…」
「はい」
「…本当なの?」
ヒストリアがコクリと頷くのを見て、メイジーはようやく安堵の息を吐いた。
セオドールは静かに立ち上がり、ヒストリアの背にそっと手を添える。
「今は、母上の側にいろ」
それだけ言うと、メイジーに深く一礼した。
「大神官様と一緒に、必要な手続きをしてくる」
静かにそう言うセオドールを見て、不安しかないヒストリアだった。




