69.王都の噂・後編
王都の市場は、辺境の村とは比べものにならないほど人で溢れていた。
朝ということもあり、石畳の上を行き交う足音、呼び込みの声、香辛料とパンの匂いが混ざり合う。
ヒストリアはセオドールと同じように顔を隠すためのベールを顔につけ、フードを深くかぶり歩いていた。
その時――、
「ねえ、聞いた?」
露店の陰から、ひそひそとした女の声が耳に入る。
「…何の話?」
「王城の塔のことよ。ほら、西の古い塔」
ヒストリアの足が、無意識に止まった。
「え?あそこ、今は使われてないんじゃなかった?」
「それがね、最近、灯りが点いてるらしいの。夜になると、必ず」
「気味が悪いわね」
「病人が閉じ込められてるんですって」
ヒストリアの喉が、コクリと鳴る。
(…西の塔なら以前いたところだし、場所はわかる)
別の女が声を潜めて続けた。
「ただの病人じゃないわ。王様の寵愛を受けてる妾だって噂」
「でももう捨てられたんでしょ?私が聞いた話だと、“王家にとって不都合な存在”なんだとか」
「不都合ってどんな?」
「さあ。詳しくは誰も知らないわ。ただ、城から出せない理由があるんじゃないの?」
笑い混じりの声が続く。
その瞬間、ヒストリアの視界がぐらりと揺れた。
耳鳴りがして、周囲の喧騒が一気に遠ざかる。
指先が冷たくなり、呼吸が浅くなる。
「――ヒストリア」
気づけば、セオドールがすぐそばに立っていた。
低い声で名を呼ばれ、ヒストリアははっと我に返る。
「…殿下…」
ヒストリアがぽつりと零すと、ルーカスがふっと息を吐いた。
「俺の孫にそんな扱いをするとはな。馬鹿な王には死ぬほど後悔させてやる」
ルーカスも、大神官としての威厳を隠し、祖父として振る舞うその顔が険しい。
その後も町を歩いて耳に入る噂は、商人、御者、下働き――どれも断片的だが、共通点がある。
塔に幽閉されたのは、王の寵を失った病の女。
だが、ただの妾にしては、警備が異様に厳しく、王家が何かを隠している。
「ヒストリア」
ルーカスが、珍しく慎重に口を開く。
「お前が贈り物の花嫁として大公国に連れていかれた件、覚えているな」
「…はい」
あれは、あまりに唐突だった。
本来贈り物の花嫁になるはずだったのは、正妃の娘であるリヴィアナ王女。
だが実際に送り出されたのは、リヴィアナと偽ったヒストリアだった。
「不本意だろうが、お前が王の私生児だということを第三騎士団は知っていたんだろ?」
ヒストリアが頷くと、ルーカスは淡々と言う。
「だから、口封じのように辺境へ飛ばされたんだ」
ヒストリアの指先が、ぎゅっと握られた。
「もし、大公国に替え玉を送ったと知られれば…」
ルーカスがセオドールに視線を投げる。
「…何だ」
「この男がブチギレて、戦争になるとでも思ってるんじゃないか?」
「……」
いや、実際にはそういう意味での贈り物だ。
花嫁とは名ばかりの人質。
何かあればお互い戦争の火種になり得る。
「だから隠す必要がある。お前の出自も、お前の母の存在も」
沈黙が落ちる。
ヒストリアは、喉の奥がひりつくのを感じながら、言葉を探した。
「…それで、母を…」
「おそらく、そんなところだろう」
ルーカスが、短く頷いた。
「生きている限り、完全な隠蔽はできない。だが、殺せば噂になる。だから口を聞かないように閉じ込めた」
王のやり方としては、あまりにも卑劣で、だが現実的だった。
「…おい、クソガキ。名案がある」
「…名案?」
「本来贈られるはずだったのは、リヴィアナという王女なんだろ?今からでもその女を娶ればいい」
「…何?」
即座に、セオドールが反応した。
「ヒストリアは解放しろ。母と共に俺が保護―――…」
そこまで言いかけた瞬間、
セオドールの氷の剣がルーカスの首元に突きつけられた。
「…お…っと、怖い怖い」
ルーカスは一瞬目を見開いたものの、驚く様子もなく不適な笑みを浮かべる。
太刀筋がまるで見えなかった。
気配も、殺意の予兆もない。
ただ、気づいたときには、刃はすでにそこにあった。
ルーカスの喉元、皮一枚の位置で静止している。
「……」
ヒストリアは息を呑み、次の瞬間、反射的に前に出ていた。
「殿下、やめてください…!」
その声に、刃がわずかに揺れる。
セオドールの視線が、ヒストリアに落ちた。 その瞳は凍てつくように冷たく、けれど彼女を傷つける刃ではなかった。
「下がれ」
「下がりません」
ヒストリアは必死に首を振る。
「…リュカ様に刃を向けるなんて…」
その瞬間、ルーカスが喉を鳴らすように、くつりと笑った。
「…曾孫に守られるとはな」
刃を見下ろしながら、余裕たっぷりの声音で続ける。
「おい、クソガキ。大神官に刃を向けるなど、帝国では重罪だぞ?」
「…構わない」
セオドールの声は低く、感情が抑え込まれている。
「俺の妻を解放しろなどと言うからだ」
「…妻、ね」
ルーカスは面白そうに目を細めた。
「独占欲だけは一人前か」
「……」
刃が、わずかに深く近づく。
その緊張に耐えきれず、ヒストリアが再び声を上げた。
「やめてください…、二人とも…!」
その震えた声に、セオドールはようやく舌打ち一つ、小さく息を吐いた。
すっと、氷の剣が霧散する。
冷気が消え、まるで最初から何もなかったかのように、剣は空に溶けた。
「…冗談だ」
その間を縫うように、ルーカスが軽く手を上げる。
「半分はな」
「…半分?」
セオドールが鋭く問い返す。
ルーカスは肩をすくめ、煙管を取り出した。
「王に突きつける材料の話だ。リヴィアナを娶る、などという話はな」
火を点け、ゆっくりと紫煙を吐く。
「だが、替え玉を贈ったという事実を表に出す、という点では本気だ」
ヒストリアの胸が、どくんと跳ねた。
「フェルバール王は、外聞と体面に異様に執着する男だ。大公国に偽物を送りつけたと知れ渡れば――」
「外交問題どころでは済まないな」
セオドールが低く続ける。
「大公国はもちろん、帝国への宣戦布告と受け取られても文句は言えない」
ルーカスは満足そうに頷いた。
「だから王は隠した。お前の出自も、お前の母親の存在も。だが…、」
煙の向こうで、金色の瞳が細められる。
「隠していると知られた瞬間、それは弱みになる」
沈黙が落ちる。
ヒストリアは、唇を噛みしめた。
「…それで、母を…、…解放させるんですか?」
震える声で問うと、ルーカスは一度だけ、はっきりと頷いた。
「そうだ。王に選ばせる。塔の女をこちらに渡すか、王家の信用を失うか」
「……」
「どちらを選ぶかは、あの男次第だが…」
ルーカスは、ちらりとセオドールを見る。
「少なくとも、このクソガキが背後にいると知れば、王は安眠できないだろ」
セオドールは否定も肯定もせず、ただ静かに言った。
「俺は嘘が嫌いだ」
「知ってる」
「だから事実だけを突きつける。ヒストリアは俺の妻だ。奪い取ったわけでも、騙されたわけでもない」
その言葉に、ヒストリアの胸がきゅっと締めつけられた。
「その妻の母親を、正当な理由なく幽閉している。…それだけで十分だ」
ルーカスは、しばし黙っていたが、やがて小さく笑った。
「…やれやれ。気に入らないところも多いが」
ちらりとヒストリアを見る。
「この子を守る覚悟だけは、認めてやろう」
ヒストリアの目に、じわりと涙が滲んだ。
王都の喧騒の中で、三人は静かに立っていた。
母を取り戻すための、最初の一手が、今、定まったのだった。




