67.そして、朝
天幕の薄い布越しに差し込む朝の光が、ふわりと瞼を照らす。
ヒストリアはゆっくりと目を開け、自分がセオドールの腕の中にいることに気づいて固まった。
(…あ、あれ…?)
セオドールの胸に頬が触れていて、彼のゆっくりした呼吸が耳元に落ちてくる。
ヒストリアがそっと体を離そうとすると、
「…もう…朝か?」
まだ半分眠っているような低い声が降りてきた。
「…っ、殿下…、」
セオドールは眉を寄せながらぼそりと呟く。
「…お前はなんでここで寝てるんだ?」
ヒストリアはビクリと肩を揺らした。
(…え…、お、覚えてない…?よかった…)
「…昨日は喉が渇いて一気に酒を飲んだとこまでは覚えてるが…」
「す、すみませんっ…、私が寝ぼけて殿下の寝台に入ってしまったようです」
安堵が胸に満ち、咄嗟に嘘をつく。
そこでセオドールが、ふっ、と笑う。
「…そんなわけないだろ」
「――え?」
「俺があの程度の酒で記憶をなくすと思うか?」
静かな声。
けれど、その瞳はどこか甘く、ヒストリアを捕える。
「…じゃあ…、」
顔が一瞬で熱くなるヒストリアに、セオドールはゆっくり身体を起こし、彼女の頬に触れた。
「お前が覚えてないならもう一度言うから耳を貸せ」
指先が、熱に触れるように優しく滑る。
「…形式的、なんて言葉で逃がす気はない」
昨夜の熱、吐息、声――、
ヒストリアの胸がぎゅっと締めつけられる。
「…あの…、殿下…」
そんな甘い空気の中――、
「…し、失礼いたしますッ!セオドール様、ヒストリア様にはすぐに診療所にお越しいただきたく―――…」
天幕の外から、神官の声が響いた。
セオドールは露骨に眉間にシワを寄せる。
「…朝から何だ」
「大神官様が…、あ、荒れてまして!セオドール様をお呼びするようにと…ッ。このままだと診療所が…いえ、集落が…っ…」
神官の声は天幕ごしにもわかるほど切羽詰まっていて、ヒストリアは思わず身を乗り出した。
「リュカ様が、どうかされたんですか?」
「…とにかくお早くお越しくださると…ッ」
セオドールは深く息を吐き、天幕の入口に手をかけながら呟く。
「…あの老人は朝からなぜ荒れてるんだ」
神官は恐る恐る続けた。
「あの…、それが…ヒストリア様と一緒にお休みになれなかったことでお怒りのようでして…」
「「――は?」」
ヒストリアはその場で固まり、セオドールは静かに目を細めた。
(…そんな理由で…)
セオドールはヒストリアの方へ振り返り、唇の端を小さく吊り上げた。
「…なるほどな」
「なんか、すみません…」
「謝るな。悪いのはあっちだ」
セオドールは天幕を開きながら、ぼそりと付け足した。
少し拗ねたような、苦笑いのような声。
しかし、ヒストリアにはそれがどこか甘く響いた。
そして二人は、荒れ狂う大神官ルーカスが待つ診療所へと向かった。
*******
診療所は、村の外れに粗末な木材で建てられた小さな建物だった。
中に入ると、薬草の匂いと、人々の低い呻き声が満ちている。
そこで、大神官ルーカスが腰に手を当てて怒鳴っていた。
「なんだこの薬草は?乾燥が甘いどころか、カビが生えてるだろうが!管理者は誰だ!!」
「す、すみません大神官様…、先月の大雨で…」
「言い訳はいらない。使えるものを持ってこい。俺がいるうちに治せるやつは全部治してやると言ってるんだ。早くしろ」
言ってることは合ってるが、威圧感がすごい。
ヒストリアは思わず息を呑む。
セオドールはと言えば、診療所に入るなり面倒くさそうな顔をしている。
「リュカ様、おはようございます」
「…あぁ、ようやく起きてきたか」
見るからに不機嫌そうな金色の瞳が二人を捉えた。
「世話になった礼に、村と騎士団が使ってる診療所を手伝ってやることにした。お前たちもちゃんと働け」
帝国の大神官の治療が受けられるとあって、朝の五時とは思えないほどたくさんの患者がいる。
「ヒストリアは中の手伝いだ。そこの包帯をこっちに持ってこい」
「はい」
ヒストリアが包帯の入った篭に手を伸ばすと、セオドールが横から、ひょい、と持ち上げた。
その様子を見ていたルーカスが、冷たく言い放つ。
「そんなに何か持ちたいなら、貴様は村へ行ってこい。動けない患者がいたらここまで運んでくるんだ」
ベールの下に隠れていて、セオドールの表情は見えなかったが、意外にも素直に診療所から出ていった。
昼になり治療がひと段落した頃、ヒストリアが水を汲みに裏の井戸へ向かうと、
ルーカスが外の丸太に腰を掛けて、煙管をふかしていた。
「…元気がないように見える。お前も診てやるか?」
「…いえ、大丈夫です」
「俺の目は節穴じゃない。何があった?クソガキになんか言われたか?」
「…い、いえ、殿下は悪くありません」
ルーカスは鼻で笑う。
「じゃあ、何に怯えてる」
ヒストリアは思わず手を止めた。
「…殿下が、私を大公妃にすると」
絞り出した声は、風に揺れて頼りなかった。
「そうか。今すぐ断れ」
「もちろん、断りました。私は平民で、身分も違いますし」
「身分、ねぇ…」
ルーカスは嘲笑うように煙を吐き出す。
「身分なんて気にする必要がどこにある」
ヒストリアが顔を上げる。
「大公妃にはならなくていい。お前とお前の母は、俺が面倒を見る。神殿が気に入らないなら、俺の屋敷で暮らせばいい。空き部屋はいくらでもある」
「リュカ様の…お屋敷に?」
「お前たち親子は俺の血縁だから当然だ」
ルーカスがあまりにも当たり前のように言うから、ヒストリアの視界がじんわり滲んだ。
紫煙を吐きながら、ふと問いかける。
「…ヒストリア。お前は、俺の身分が卑しいと思うか?」
「そんな…、大神官様は高貴で偉大なお方です」
「はっ」
ルーカスは笑った。
「俺の母親は酒場の女だ」
「…え?」
「神力が馬鹿みたいに強かったから神殿に拾われただけのこと。俺は貴族でもなんでもない」
呆然とするヒストリアの横で、ルーカスは落ち着いた手つきで煙管を膝の上に置く。
「身分は関係ない。何ができるか、どう生きるかで価値が決まる」
「私は、何もできていません」
ヒストリアは俯いて、指先をぎゅっと握った。
「いや、お前はよくやってる」
「……?」
「母や仲間を救うために故郷を捨て、宰相邸では自分よりも侍女の命を優先した。…悪いが、神殿も少し調べさせてもらったんだ」
ルーカスは煙管の火を落とすと、静かに言葉を続ける。
「お前は、いつだって自分よりも自分以外の誰かの事を先に考えて動いてる。そんなやつは、そう多くない」
「リュカ様…」
「あいつが、お前のことを本当に大公妃にすると言ってるなら、クソガキにしてはいい選択だ。だが、お前の道ははそれだけじゃない」
「…私の…道」
「そうだ。大公妃になるのか、神殿に仕えるのか、俺の屋敷でのんびり暮らすのか。どれでもいい、お前が決めろ」
ルーカスは煙管を置くと、ゆっくりヒストリアの前に歩みを進め、ぽん、と頭に手を置いた。
大きな手が、温かい。
「誰に否定されても、俺はお前の味方でいる」
ヒストリアの目から、涙が零れた。
「…ありがとうございます、リュカ様」
「…俺はお前のおじいちゃんだからな」
見た目が若いので“おじいちゃん”という言葉は似合わないが、無条件で自分の味方をしてくれるという存在が、ヒストリアの胸を熱くしていた。
「…昨夜、お前とその話をしたかったんだが、あのクソガキに横取りされた」
その声色は、不機嫌さ半分、諦め半分でヒストリアは思わず小さく笑った。




