66.夜営の灯・後編
天幕の中に入ると、そこには簡素な寝台がひとつ。
セオドールはそこに座り、外套とベールを外した。
「…ようやく息が吸える」
「…殿下、酔ってますか?」
「酔ってない。ベールが暑くて、少し飲んだが…」
ベールを取ったセオドールは、目がとろんとして、うっすら頬が紅潮して見える。
(…酔ってる)
「…あの、どうして怒らなかったんですか? 団長たちが…、その…殿下のことを悪く言ったのに」
セオドールは、しばらくヒストリアを見つめた後、穏やかに答えた。
「彼らは、お前の家族のようなものだろ」
「え…?」
セオドールは、ふっと微笑った。
「長く一緒に過ごした仲間の言葉に、俺が怒ってどうする」
酔いが回っているのか、セオドールは寝台に横たわり、片腕を額にかけていた。
ランプの淡い光が、彼の横顔の稜線をやわらかく照らす。
「…殿下、水を持ってきますか?」
「…リア」
セオドールが目を閉じて静かに呟いた。
「え…?」
「皆、そう呼んでいた」
「…そうですね」
ヒストリアは、少し距離をあけて床に座り、遠慮がちに口を開く。
「…そういえば、殿下も愛称で呼ばれていましたよね。陛下やミレイユ様に、“セオ”って」
セオドールは片目だけを開けた。
「…ああ。あれは、ミレイユのせいだ」
「……?」
「ミレイユは、すぐ名前を縮めて呼ぶんだ」
少し不機嫌そうに言うが、声はどこか懐かしそうで、ヒストリアは思わず笑みをこぼした。
「じゃあ、小さい頃はみんなからそう呼ばれてたんですか?」
ほとんど無意識の質問だったが、セオドールの動きが一瞬止まった。
少し沈黙があり、彼は天井を見たまま低く言う。
「…セディ」
「セディ?」
「母は、そう呼んでた」
その声は、彼には珍しく、どこか遠い記憶をそっとなぞるようだった。
なぜか、ヒストリアの胸が、きゅ、と疼く。
セオドールが再び目を閉じたのを見て、ヒストリアはそっと立ち上がる。
その瞬間、
ガシッ―――
寝台から伸びたセオドールの腕が、まるで獲物を逃がすまいとするかのようにヒストリアの手首を掴んだ。
「…どこへ行く」
「ど、どこって…寝台はひとつですし、私はどこかその辺で――」
「何を言ってる」
セオドールは、ゆっくりと上半身を起こし、彼女をじっと見上げた。
その瞳はランプの光を宿して、鋭いのにどこか甘い。
「今さらだ」
そう低く告げると、セオドールはヒストリアの手首を引き寄せ――
そのまま迷いなく、寝台の上へ引きずり込んだ。
「…っ、…!?」
次の瞬間にはヒストリアはセオドールの腕の中にいて、上からふわりと布団がかけられる。
彼はヒストリアの髪を指で軽く掬いながら、囁く。
「…今日はここで寝ろ」
耳元にかかる声と熱。
ヒストリアの頬は一瞬で熱くなる。
「殿下、ち、近い…です」
「近いと何か困るのか」
「こ、困ります…!」
悪戯のように微笑んだセオドールは、彼女を抱き寄せた。
「…まぁ…、困ってる姿も悪くない」
低い声が、耳のすぐそばで落ちる。
ヒストリアが肩を跳ねさせると、セオドールはゆっくり腕をほどきながら身体を起こした。
「何を驚いてるんだ?」
「お、驚きますよ!だって、殿下が、その…、耳元で話すから…」
「耳…?…あぁ、これ…か?」
今度はヒストリアに覆い被さるように体重をかけると、わざと耳元で強調するように囁いた。
その一言に、ヒストリアは一瞬、言葉を失う。
薄暗い部屋の中、今度はヒストリアの頬へ指先を滑らせた。
かすかに触れただけで、ヒストリアの身体がぴくりと震える。
囁きは、息が髪を揺らすほど近く、ヒストリアは思わず視線を逸らそうとするが、セオドールの指が顎をすくい上げた。
「逃げるな」
「…逃げてない、です」
「じゃあこっちを向け」
促され、仕方なく瞳を合わせた瞬間、セオドールの視線があまりにも真っ直ぐヒストリアを捉えていて、心臓が跳ねる。
「こんな顔をしておいて、困るとか言うな」
「…ど、どんな…顔ですか…」
「自覚がないのか」
セオドールはヒストリアを抱く腕に、わずかに力を込める。
大きな手が背に添えられると、それだけで呼吸が乱れそうになる。
「…殿下」
「何だ」
「…あの…、」
ヒストリアが必死に言葉をつなごうとしたその時、セオドールはそっと彼女の頬に触れた。
大きな指先が、驚くほど優しく。
その温度に、ヒストリアの声はすっと消える。
「…殿下じゃない」
「…え?…あ、し…神官様でしたね」
指が頬から耳の後ろへ滑り、髪をすくう。
「…違う。俺はお前の夫だ」
囁きというより、吐息に近い声だった。
力も、誇示も、何もない。
ただ、彼が本気でそう思っているというだけの、静かな熱。
ヒストリアの胸がきゅ、と縮む。
「…前から思ってましたが、…婚姻は宰相邸から連れ出すために、形式だけの――」
ようやく絞り出した否定は、セオドールの短い息に遮られた。
「違うな」
「…っ…、」
「お前を連れ出したあの日、…俺は、お前を失うのが怖かった。」
声が低く落ちる。
けれど怒りでも威圧でもない――ただの正直な告白。
「理由なんて、後付けだ。宰相だの形式だの、そんなのはどうでもいい」
セオドールは、絡めたヒストリアの手を両手で包むように握った。
大きな手に、逃げ道はない。でも痛みもない。
ただ、離したくないという気持ちだけが伝わってくる。
「…俺は嘘が嫌いだ」
「……」
「だから言っておく。お前を迎えに行ったのも、連れ出したのも、今そばに置いてるのも――…」
短い沈黙。
そのあとに落ちた声は、驚くほど穏やかで、甘かった。
「…全部、俺の意思だ」
ヒストリアの喉が震える。
呼吸が乱れ、言葉が出ない。
「…たとえ逃げ出したいと言われても、逃がさない」
「…殿下…?」
セオドールの額が、そっとヒストリアの額に触れた。
押しつけるでもなく、触れるだけの静かな距離。
「…お前を気に入っているからな」
低く、真っ直ぐで、逃げられない声。
「…それだけは、覚えておけ。リア」
名前を呼ばれるだけで、胸の奥が痺れる。
ヒストリアは何も言えなくなり、ただ瞬きを繰り返した。
セオドールはその反応を見て、ようやく少し息を吐く。
「…震えてる。怖いのか?」
「い、いえ…っ」
「ククッ…別にここで無理やり襲ったりしないから安心しろ。無理に返事もいらない。…ただ、今はここにいるだけでいい」
ヒストリアの額に、短く触れるだけのキスが落ちる。




