64.第三騎士団
外は月も隠れ、雲の流れが早かった。
ミラの母が静かに戸を閉めたその時―――、
家全体が、地面の低い震えとともに揺れた。
ヒストリアが反射的に顔を上げると、セオドールと目が合った。
「…今のは…?」
「…わからないが、魔力を感じる」
セオドールは、身体の奥で微かに結界のような力を感じ取っていた。
「おそらく、国境の結界だな」
ルーカスが眉ひとつ動かさず言った。声色は落ち着いているが、瞳は冷たく光る。
ミラの母も怯えたように口を押さえ、震える声で言う。
「こ、国境結界って、…誰か侵入者が…?」
ヒストリアの心臓がひやりと縮む。
セオドールは隣に立つヒストリアの肩にそっと触れ、囁くような声で言った。
「気にするな。何とかなる」
「…ですが、大丈夫でしょうか。許可もなく帝国から勝手に越境したとなれば…、」
「それは後で考える」
言葉と裏腹に、セオドールの瞳は真剣そのものだった。
家の外から、複数の蹄音が近づいてくる。
窓から様子を伺っていたアイナの表情が一気に青ざめた。
「き、騎士団です…!」
「…気付いているだろうが、侵入者は俺たちだ」
ルーカスが立ち上がり、淡々と手袋をはめる。
その声は冷ややかで、それでいて妙に頼もしい。
「ここに留まると、彼らはこの家を徹底的に調べるだろう。外に出て、俺たちが直接話した方が事態はいくらかましだ」
セオドールも頷く。
「…行こう」
外へ出ると、家の前の道には十数騎の騎士が松明を掲げ、円陣を組むように馬を止めていた。
「国境結界が破られ、捜査に来ている。この家の付近で怪しい三人を見たという証言があるが、お前達のことだな」
そう言葉を発した騎士の鎧の紋章を見た瞬間、ヒストリアの息が止まる。
あれは―――…、
かつて自分が共に訓練し、共に笑い、共に命を預けていた仲間たち。
―――第三騎士団。
「…なんで、ここに…?」
贈り物の花嫁としてノルディアに行かないならば、第三騎士団を全員処刑すると言われた。
裏を返せば、ヒストリアが言うことを聞けば、彼らに被害が及ぶことはないはず。
王族直属の優秀な騎士団が、辺境の地に追いやられているわけがなかった。
ひときわ大柄な騎士が馬上から前に出る。
月光に照らされた黒髪に近い濃い茶色の髪。
屈強な肩。
鋭い眼差し。
ヒストリアの胸が締め付けられる。
「…ラウル…?」
その名を呟くと、その男は一瞬、顔を強張らせた。
信じられない、といった表情で。
次の瞬間、彼は馬から飛び降りた。
「…リア、なのか?本当に…?」
ヒストリアも口を開きかけるが、ラウルが先に問いかぶせる。
「お前…、大公国に贈られて、それきりで…なのに、なんでここに…、その格好は…?」
その声音には驚きと、悔しさと、怒りと…、言葉にし難い感情が渦巻いていた。
セオドールが一歩前に出る。
「質問は後にしろ。まずは破れた結界をどうにかしたい」
すると、ラウルの目が鋭く細まる。
「…あんた、誰だ?」
「関係ない。早く案内しろ」
「…そんな、外套とベールで顔を隠してる怪しいやつを、国境結界には連れていけない」
「…何だと?」
ピキッ…
セオドールの側に舞っていた落ち葉が一枚、一瞬で凍った。
「…殿…っ、し、神官様ッ、おやめください」
慌ててヒストリアが間に入る。
「…神官?あんた、神官か。なんかそうは見えねぇな」
イラッしているセオドールの外套の袖を、ヒストリアが引っ張った。
すかさず、ルーカスが口を開く。
「…俺もその意見には賛同だが、結界へは早く案内した方がいい。この揺れは異常だ。上から結界を張り直さないと、村を巻き込んで大爆発するかもしれない。今、この場で張り直しができるのは、そこにいるクソ生意気な神官くらいだ」
その言葉で、第三騎士団が三人を国境結界へと案内することになった。
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「…ねぇ、ラウル。なんで、ここに第三騎士団がいるの?」
「…国王陛下のご命令だ。『役立たずの第三騎士団は国境の見張りでもしていろ』…そう言われて、リアがいなくなってからずっとここにいる」
ヒストリアの喉がひくりと動く。
――王の、命令。
ラウルは続ける。
「リアが大公国に贈られたころから、王妃様とリヴィアナ様はやりたい放題だ。王城では金銀が消え続け、税は上がり、民は荒れて治安がどんどん悪化してる」
ミラの母が言っていた噂が、ラウルの口からも出てきた。
ヒストリアはまるで胸の奥を鷲掴みにされたようだった。
王族という存在を信じたこともなかったが、ここまでひどいとは―――
セオドールが横目でヒストリアを見る。
「…大丈夫か」
ヒストリアはかすかに頷いた。
しかし手は、わずかに震えていた。
国境結界は、森の外れ、岩肌がむき出しになった断崖の手前に張り巡らされていた。
薄い霧のような光の膜が、風とは関係なく脈動している。
まるで巨大な獣の呼吸のように、ぎしぎしと軋み、不穏な音を立てて揺れていた。
「…ひどいな」
ルーカスが低く呟いた。
その声は珍しく緊張を帯びていた。
「座標がズレて、結界を突き破ったことで、負荷が一気にかかったようだ」
ヒストリアは息をのむ。
「…大丈夫、なんでしょうか」
俯きかけた肩を、そっと掴む手があった。
セオドールだった。
「壊れるような結界を作っている方が悪い」
それだけを平然と言い捨て、彼は結界の前へ歩き出した。
第三騎士団の面々は、不審者のように目を細める。
「本当に大丈夫なのか?結界は勝手に――」
「黙って見ていろ」
セオドールは外套を脱ぎ捨て、腕をまくった。
ベールの下から覗く横顔は夜気に冴え、どこか獣のように鋭い。
ラウルが呆れ混じりに呟く。
「…あいつ、本当に神官なのか?」
「形だけは、な」
ルーカスが鼻で笑う。
だが、その目はしっかりセオドールの動きを追っていた。
セオドールが結界に手を触れた瞬間―――
バンッ!
光が爆ぜ、風が周囲に吹き荒れた。
木々が悲鳴を上げて揺れ、地面がぐらりと傾く。
「殿下!」
ヒストリアが思わず叫んだが、セオドールは振り返らない。
代わりに、静かに片手を上げる。
「そこから動くな」
その声音は低い。
だが、それだけで空気が一変した。
まるで、場の支配そのものだった。
ヒストリアは胸の奥がきゅっと締め付けられる。
もはやヒトではないような威圧感。
それでいて、守ってくれているような安心する背中。
セオドールの両手に、青白い魔力が集まった。
それは冷気ではなく、彼の“本質”そのものに近い光。
「…あのクソガキ、ずいぶんやる気を出すじゃないか」
ルーカスが苦々しく呟く。
「張り直すだけなら、もっと素直に魔力を流せばいいものを。あれでは、結界そのものを凍結させて強制固定する気だな」
「凍結って、そんな芸当、神官にできるのか…?」
ラウルが青ざめる。
ルーカスは肩をすくめた。
「普通は無理だ。あの化け物なら、可能だが。」
ルーカスだけが、セオドールが何をしようとしているか理解していた。
――結界の魔脈そのものを止めてしまう。
暴走する前に、一度すべてを零に戻す。
やり方としては、乱暴すぎる。
けれど、その瞬発力と判断力は、誰よりも正しい。
セオドールが短く息を吐いた。
「――凪げ」
一言。
たったそれだけで、空気の温度が一瞬で変わる。
吹き荒れていた風が止まり、結界の脈動も止まり、
あれほど不気味に軋んでいた光の膜は、まるで凍り付いた水面のように静まり返った。
大地の揺れが止む。
ヒストリアの白金色の髪が、最後の風に揺られて静かに落ち着く。
第三騎士団の誰も、言葉を発せなかった。
ラウルでさえ、呆然と口を開けていた。
セオドールは、結界から手を離す。
振り返りざま、何事もなかったかのように言った。
「これでしばらくは安定する。上位の魔法士を呼んで張り直させろ」
…あまりに当然のように。
ルーカスが鼻で笑う。
「だいぶ無茶なやり方だが結果だけは見事だな。さては、孫に良いところを見せようとしたな?まったく、だから気に入らないんだ、お前は」
セオドールはそっぽを向く。
「褒めるなら素直にどうぞ、大神官様」
「褒めていない。事実を述べただけだ」
二人の張り詰めたやりとりに、第三騎士団の面々はただ圧倒されていた。
ヒストリアは、結界が静まり返った光景を見つめながら、
胸の奥で強く息を吸った。
大公国の氷の大公。
そして、帝国最高位の大神官。
この二人に守られているという事実が、確かな安心へと繋がっていくのを感じた瞬間だった。




