60.ノエルの受難
大公城の兵士訓練場。
午前の陽が差し込み、剣の打ち合う軽い音が響いた。
「ノエル、そこで止まらないで、足を半歩後ろに引いて!」
ヒストリアが剣を構え直し、目の前のノエルへ声を飛ばす。
まだ十五歳の少年は額に汗を浮かべながらも、とても素直な顔だった。
「はい…っ…!」
スッ、とノエルが言われた通りに足を運ぶと、ヒストリアも軽く構え直し、打ち合いを再開する。
カンッ、カンッ。
木剣ではなく、切れ味をわざと悪くしてある訓練用の剣を使っているので、軽やかな金属音が響いている。
「刃筋はまっすぐ。急がないで」
「はっ、はい…っ」
生き生きとしたヒストリアは楽しそうに剣を振るう。
ノエルは、ヒストリアのことを尊敬する先輩の兵士といった感じで、完全に懐いていた。
──その空気を、破壊する影が、ゆっくり近づいていた。
「…楽しそうだな」
背筋が凍りつくような低音。
ノエルがビクッと振り向き、直立不動になる。
「た、大公殿下…!」
セオドールが腕を組んで立っていた。
表情は無表情。
だが、その無表情が危険だった。
ヒストリアが慌ててお辞儀する。
「…少しだけ、ノエルが稽古に付き合ってくれました」
「…そうか」
声は低い。
冷静に聞こえるが、空気が微妙に荒んでいる。
(なんで怒ってるの…?)
ヒストリアが内心で青ざめる間に、セオドールの視線がノエルへ向いた。
「お前。そんなに鍛えたいなら、俺が相手をしてやろう」
「えっ、あ、あのっ、いや、…!」
即座に首を振るノエル。
しかし、
「構えろ」
セオドールは有無を言わせず剣を取る。
ノエルは半泣きで剣を握りしめた。
次の瞬間──、
バンッ!!
セオドールの一撃。
ノエルは三歩後ろにすっ飛んだ。
「ひ、ひぃっ!…で、殿下…、ちょっと、お手柔らかに…っ!」
「強くなりたいんだろう?」
そこから地獄の稽古が始まった。
バシィッ!
ガンッ!
すごい音ばかりが場内に響く。
ヒストリアは慌てて駆け寄る。
「殿下!そんなに一方的に攻撃したら、ノエルが怪我をします!」
「大丈夫だ。まだ立てる」
「いや、あれは無理だ…」
「ノエル、災難だな…」
「あいつ、今日で背が縮むぞ…」
周りの兵士達がヒソヒソ囁く。
*******
しばらくしてようやくセオドールの気が済んだのか、剣を下ろすと、ノエルは地面にへたり込み、魂が抜けかけていた。
「…ありがとうございました…(かすれ声)」
ヒストリアはノエルを気遣ったあと、セオドールのほうへ向き直る。
「殿下、私も殿下と手合わせしたいです」
「…俺と?」
「はい。殿下に挑戦します」
一瞬、セオドールの眉がわずかに上がる。
だがすぐに剣を構えた。
「…いいだろう」
兵士たちのざわめきが一気に大きくなる。
「妃殿下と殿下が手合わせ!?」
「いや、あれ…普通に見たい」
「一体どっちが勝つんだ…?」
金属がぶつかり合い、火花が散る。
ヒストリアの踏み込みは鋭く、剣筋は迷いがない。
セオドールの表情がほんの少しだけ変わる。
(前より…速くなっている)
兵士たちの息が止まった。
「妃殿下の動き、やばいな…」
「殿下も、なんだか楽しそうだ…」
セオドールの剣が襲いかかる。
ヒストリアはぎりぎりで交わし、すかさず剣を滑り込ませた。
――カンッ!
セオドールの腕がわずかに揺れる。
ほんの一瞬。
「……!」
周りの兵士たちがどよめいた。
「い、今の!当たったか?」
「まさか、妃殿下が殿下から一本とった…!?」
セオドールの瞳がすっと細まり―――、
次の瞬間、足運びが変わった。
空気が一気に重くなる。
ヒストリアが息を呑んだ。
(…来る)
剣が弾かれ、重心が揺れたと思った次の瞬間には、セオドールの剣がヒストリアの喉元に、ぴたりと触れた。
「…そこまでだ」
二人の戦いを見ていた者たちは、全員呼吸を忘れていた。
ヒストリアは、悔しそうに笑いながら剣を下ろす。
「ふふっ…、一本、取れたと思ったんですが」
セオドールはわずかに目を細めた。
「まぁ、悪くはなかった」
「…殿下、それ褒めてるつもりですか?」
「そうだ」
「褒めるの、下手くそすぎます」
ヒストリアは、可笑しそうに笑う。
「じゃあ、何て言えばいい」
「…そうですね…、『よくやった』とか『上達した』とか、『強い!危うく負けるところだった…!』とかですかね?」
「…俺は負けない」
「そういうことじゃないんです」
すると、セオドールがヒストリアの額についた汗を親指で拭い、低く言った。
「…よくやったな」
その声があまりに優しくて、ヒストリアの心臓が跳ねた。
頬が少し熱くなる。
彼が楽しそうだったこと、そして認めてくれたことが嬉しかった。
セオドールはヒストリアから視線を逸らすと、ノエルの方をちらりと見る。
「おい、十分休息はやっただろ。次はお前の番だ、早く立て」
「うそでしょぉぉぉぉ!?」
ノエルの声と、兵士達の笑い声が訓練場に響き渡った。




