57.危険な朝
どれほど待っただろうか。
廊下から足音が聞こえ、扉の前で止まる。
ゆっくりと開いたドアに目をやると、
「……」
セオドールが部屋に一歩入った瞬間、ぴたりと動きを止めた。
目は、大きく見開かれている。
寝巻きの裾を必死に伸ばし、困ったような様子でヒストリアが声をかけた。
「…殿下、すみませんっ…、何か…行き違いがあるようで…」
怒るか、驚くか、困るか、どんな反応をするかと身構えたが、
セオドールは、ゆっくりと息を吐いて部屋に入ってきた。
「…俺が指示したわけじゃない」
「…で、ですよね?」
「…余計なことを…」
額に手を当てているあたり、彼も相当気まずいらしい。
セオドールはしばらく黙ったまま、困惑したように視線を外し、
「…とりあえず、着替えを―――」
と、言いかけたが、すぐに言葉を切る。
「…いや、やっぱり侍女を呼ぶのはやめておこう。もう休んでいるはずだ」
「そ、そうですよね。こんな夜中に起こしたら、迷惑です…」
二人とも、気まずそうに視線を落とす。
しかしセオドールは次の瞬間、決意したようにヒストリアの方へ歩いてきた。
「え、殿下…っ?」
驚いて身構えるが、ふっと自分の肩が温かくなる。
「そのままだと…、俺が困る」
淡々と言ったように見えるが、耳が少し赤くなっている。
ガウンを脱いだことで、上半身には何も着ていないセオドールを見て、ヒストリアの方が目のやり場に困った。
ヒストリアはフェルバールでは騎士だったので、男たちの鍛えられた上半身など見慣れている。
いや、見慣れているはずだった。
なのに、彼の肩と胸の線が露わになると、なぜか呼吸が浅くなる。
魔法士であるセオドールだが、以前手合わせして、剣の腕も自分では敵わないほど相当なものだった。
当然鍛え上げられているとは思っていたが、均整が取れた程よい筋肉は過剰に誇示しすぎることもなく、独特の強さを帯びている。
ヒストリアは視線を反らし、慌ててガウンを握りしめる。
ふわりと広がる香りに、胸の奥が跳ねた。
(…殿下の匂いが…近い…)
落ち着いた香りと、かすかに感じる体温。
薄い寝巻きの上からでも、体が熱くなる。
「で、殿下は…寒くないんですか?上…着てなくて…」
「寝るときはいつもこうだから気にするな」
(いや、気になる…ッ…)
上半身裸で平然としているセオドールに、ヒストリアの心臓は忙しなく跳ね続けた。
気まずい沈黙が落ちた後――、
「…俺はソファで寝る」
「だめです、殿下がソファなんて…!私が寝ます。何なら床でも…」
「お前を床やソファに寝かせる気はない」
「だ、だからって…殿下が寝るのはダメですっ…、私の方が体が小さいのでソファでも…」
「いいから言うことを聞いてくれ」
「いえ、聞けません!」
譲らない二人の声が小さく反響し、結局、また沈黙が落ちる。
ヒストリアが仕方なくベッドの方へ目を向けた。
「…あの…、殿下。広いので…、端と端で寝れば、大丈夫…だと思います」
言った本人の方が照れて声が小さくなっていく。
セオドールはその案に一瞬動きを止めた。
(…端と端?…一体どういう拷問だ)
だが表情には出さず、かすかに頷く。
「…わかった」
「はい…」
ベッドに向かうと、自然と二人の歩幅もゆっくりになっていく。
互いに意識しているのが分かってしまう距離感。
そっとガウンを押さえながら布団に潜りこむヒストリア。
その反対側のベッドの端、まるで距離を測るようにしてセオドールが横になる。
部屋の明かりが落ちると、静寂が降りた。
──―眠れるはずがない。
ヒストリアは胸元で高鳴る鼓動を押さえながら目を閉じた。
(緊張する…どうしよう…)
セオドールもまた、反対側で天井を見つめていた。
(こんな距離で眠れるわけがないだろ…)
互いに意識し合ったまま、長い夜が過ぎていった。
*******
翌朝。
柔らかい陽がカーテン越しに差し込む。
ヒストリアはまどろみの中で、温かいものに包まれているのに気づいた。
(あれ…?あったかい…)
体に強い圧が―――、
…何だろう?
「…え?」
自分の腰をしっかり抱き寄せるように回された腕。
背中に感じる、セオドールの規則正しい呼吸。
(えっ…、ちょっと…何これ…)
心臓が跳ね上がる。
セオドールは目を閉じたまま、寝息を整えている。
眉間の皺もなく、
いつもより幼い表情―――
いや、無防備というべきか。
ヒストリアは固まったまま必死で考えた。
その腕の力は、彼が寝ぼけているせいか妙にしっかりしていて、逃げようと思っても、逃げられない。
(ど、どうしよう…っ…)
ヒストリアの鼓動だけが、朝の静かな寝室に響き続けた。
(…動いたら起きる…?いや、それよりこの体勢…)
気配に気づき、セオドールの睫毛かすかに動いた。
ゆっくりと重たい瞼が持ち上がる。
視界に入ってきたのは、
自分の腕の中で固まっているヒストリアの姿。
「……」
彼はまだ夢の中に片足を突っ込んだような、深い眠気の底にいる目をしていた。
「……起きた……のか…?」
低く掠れた声。
寝起き特有の、普段よりずっと柔らかくて危険な音色。
ヒストリアは真っ赤になったまま、かろうじて頷いた。
セオドールはしばらくぼんやりと彼女を見つめ、ほんの少しだけ腕を強めた。
「……あったかい…」
ぽつりと漏れた声は、理性のフィルターを一切通っていない。
(……っ!)
ヒストリアは息が詰まり、身体が跳ねる。
だがセオドールは気づかない。
彼の頭はまだ半分眠っていた。
夜、ほとんど眠れなかった疲れが色濃く残っていたからだ。
「……やっと……眠れたところだったのに……」
その本音までうっかり口にしてしまう。
「…で、殿下?あの…、起きて…っ、」
困惑するヒストリアに、彼は逆に困ったように目をつぶったまま眉を寄せ、
「……もう少しだけ…このまま…」
と、低く囁いてしまった。
完全に無自覚。
ほぼ寝言に近い。
ヒストリアは心臓が暴れだしそうで、言葉も出ない。
―――そして、
ようやく、セオドールの意識が現実に追いついた。
「……」
数秒の沈黙のあと、腕の中の状況を理解した彼の目が、一瞬で覚醒する。
「――ッ!!」
慌ててヒストリアから離れ、上半身を起こす。
耳まで真っ赤だ。
「い、いまのは…、その…ッ」
説明にならない説明を必死に探して、俯いたまま額を押さえる。
「…悪い…、寝不足で、…判断が鈍ってた…」
ヒストリアも真っ赤で何も言えない。
寝室には、昨夜とは違う種類の甘い気まずさが満ちていた。




