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53.追憶



※これは、約七十年前、赤い石のペンダントを作ることになった大神官ルーカスの物語です。



神殿の奥深く、外の光が差さぬ石壁の中で、若き神官リュカ(のちの大神官ルーカス)は、幼い頃からずっと、そこに囚われるように生きてきた。


物心つく前から莫大な神力を持っていた彼は、“神の器”として育てられ、外の世界はおろか、神殿の敷地の外へ一歩出ることすら許されなかった。



「感情を持つな」

「迷うな」

「神の器は、人ではない」


日々注がれる言葉は、祈りではなく縛りだった。



彼が笑えば「無駄」

泣けば「弱い」

寂しさを漏らせば「不敬」


ここでは、誰もリュカを人として扱わなかった。




「リュカ様、一緒にこれ食べませんか?」


そう言って、キャンディを差し出す一人の少女―――、ソフィアを除いて。



その言葉は、これまで誰からも与えられなかったものだった。



「…神官長に見つかると怒られるぞ」


ソフィアは祈りのために配属された若い巫女だった。

リュカより二つ年上の19歳。

穏やかで優しい、赤い目をしていた。


出会った当初、ソフィアはリュカに深く頭を下げた。


しかし、時が経つにつれて、たまにこんな風に話しかけてくる。



リュカは驚きと戸惑いを隠せなかった。


「怒られたら…、一緒に怒られましょう?」


この少女に出会ってから、胸の奥で何かが音を立てて崩れた気がした。



ソフィアは、リュカが読んでいる書物のことを尋ねた。


花の話になると瞳を輝かせ、疲れていればそっと温かい茶を淹れた。



「…お前は、俺を人みたいに扱うんだな」


「リュカ様は人ですよ。ちゃんと、心があるじゃないですか」


「心なんて…、持つなと言われてきた」


「誰にでも心はあるものです」



言葉は淡々としていたが、その優しさはまるで陽だまりのようで、閉ざされた世界で初めて、リュカは息がしやすくなった。



誰も踏み込めないはずの“神の器”に、当たり前の優しさで触れてきた。


一方で、ソフィア自身もまた逃げ場のない立場だった。



巫女は、神に捧げる清き身でなければならない。

世俗の欲を持つことも、恋をすることも許されない。


神殿の意向ひとつで人生は決められる。



―――そして、寂しさから誰にも知られないように泣く夜があった。



ある夜、ソフィアがひっそりと涙を流しているのをリュカは見てしまった。


「…なぜ泣いてる」


「ごめんなさい。こんなの、巫女らしくありませんね」


「巫女だから泣くな、なんて誰が決めた」


「…神殿の人たち、みんなです。巫女は奉仕者だから、涙を持つことは許されない、と」



その時、リュカの胸に沸いた思いは、神力よりも熱かった。




「…お前は、俺を人扱いしてくれるのに、自分のことはそう扱わないんだな。…泣きたい時は、泣いてもいい。それが人間だろ?」


ソフィアの涙が、ゆっくりと零れ落ちた。

その涙をリュカが指で拭うまで、多くの時間はかからなかった。


ソフィアは堪えていた声を漏らし、震える肩をリュカの胸に預ける。


リュカは戸惑いながらも、その身体を抱いた。


彼の指先がそっと涙を拭うと、ソフィアは安心したように目を閉じた。



胸が痛いほど愛しいと思う感情を、その時、初めて知った。




*******

やがて二人は、誰にも許されぬ恋に落ちる。

互いの寂しさを埋めるように、触れれば壊れてしまうものを抱きしめるように。


ソフィアは、リュカと話すときだけ穏やかな呼吸を取り戻し、リュカは、ソフィアといる時だけ普通の青年に戻れた。



寄り添うたびに、二人の鼓動は少しずつ重なる。



逃げ場のない二人が、互いを唯一の居場所としてしまうのは自然だった。




だが、幸せは長くは続かない。


ソフィアに小さな命が宿ったのだ。

腹が膨らみ始めれば、誰の子かなど考えなくとも明らかだろう。


彼女は静かに決断した。



夜明け前の祈りの間。

ソフィアは祈るようにリュカの手を握った。


「…リュカ様、これ以上ここにいることはできません。見つかれば、私とこの子はおろか、リュカ様まで罪に問われることになるかもしれません…」


「…何を言ってる。そんな体で一人にさせられるわけがないだろ!…俺も行く。二人で神殿を出よう」


「…いいえ。巫女が一人いなくなったところで、逃げ延びられる可能性はありますが、神の器が神殿から消えれば大騒ぎになります」



「…絶対にダメだ」


すると、ソフィアが愛おしそうに僅かに膨らみを帯びた腹を細い指で撫でながら言った。


「私は、この子を必ず守ります。…リュカ様の想いがあれば、寂しくもありません」



何かを決意しているような赤い瞳を見たリュカは、どうしようもない衝動に駆られた。



リュカは神力の光を両手に集めた。

強すぎる力は暴れだし、何度も彼自身を焼くように脈打つ。


それでも止めなかった。



「せめてこれを…」


神力の陣が広がり、光が一点に凝縮する。

リュカの心臓の鼓動に呼応するように赤い石が成形され、やがてソフィアの命に同調するように脈打ち始めた。




リュカは最後に自分の願いを込めた。



―――どうか、俺が行くまで二人を守れ。


その石は光を失い、穏やかな赤へと落ち着いた。



ソフィアが息を呑む。


「…綺麗…」


「俺の神力の一部だ。…これを預ける」


震える手で、自分がしているロザリオのチェーンを外し、赤い石をつけると、リュカはソフィアの首へそれをかけた。



「俺は必ず神殿を出る。それまで、これがお前と子供を守る。ソフィア、俺はお前を―――、」


「言わないで」


ソフィアがそっと指を唇に当て、彼の言葉を遮る。


「その続きは、再会できた時に、聞かせてください」


二人はしっかりと抱き合い、互いの温もりを焼き付けた。




*******

ソフィアは夜明け前に神殿を出ていった。


リュカは追えなかった。

彼女の言う通り、神殿から出るには一人の方が見つかる可能性が低い。


後から追えば、間に合うはず。



その判断が間違っていたことに、リュカはまだ気付いていなかった。



神殿がそこまで甘くなかったのだ。


神官と巫女の禁断の恋が許されるわけもなく、全てを知っていた神殿は、リュカを徹底的に監視した。



これまで以上に人とはかけ離れた生活を強いられることになったリュカは、精神が崩壊しそうだったが、それでも唯一の希望、ソフィアと子供の行方を探し続ける。


外に出る術を持たないリュカは、神殿に許しを乞いに来る人々の列から情報屋の男を見つけ、自分の神力を込めた護符と引き換えにソフィアと子供の情報を求めていた。



しかし、数年後に届いた報せは酷く残酷だった。



『ソフィアの遺体が見つかった』

『赤い布とロザリオが巻かれていた』


小さな紙に書かれた、たったそれだけの文字で、リュカの世界は静かに崩れ落ちた。


信じられず、一文字ずつ何度も確かめる。


赤い布とロザリオ―――

神殿で巫女が死んだ場合、埋葬する時の方法だ。



子供については書いていない。

“生きている”とはとても思えなかった。


守れなかった。

愛した人も、子も。


愛しているとも伝えられず、子供の顔は見ることさえ叶わなかった。



彼はその日を境に、人間の心を深い奥底に閉じ込める。


青年リュカは消え、冷徹な大神官ルーカスが生まれた。




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