48.大神官
帝国内、大公屋敷の寝室では、乾いた紙の音だけが何度も響いていた。
セオドールが治癒魔法のスクロールを展開し、光がヒストリアの胸元に降り注ぐ。
しかし反応は、ない。
パサリ―――…
また1枚が使い切られ、床へ落ちた。
傷は確実に良くなってきているのに、目が覚めない。
医者はあの時、安静にして怪我を治療すれば、すぐに気がつくはずだと言っていたのに。
ヒストリアが救出されてから三日間、セオドールは一時も離れずここにいる。
他の者を部屋に入れることはなく、次々に破られていくスクロールの補充にやってくるカインだけが入室を許されていた。
カインは呆れを超えて、もう痛々しいものを見る目になっていた。
羊皮紙製のスクロールを机の上に並べると、食事もろくにとっていないセオドールのために持ってきた軽食も一緒に置く。
「…殿下。いくら治癒のスクロールでも、体が受け取れる魔力量は限界があります。もう三日です。殿下も少し休まないと」
セオドールは聞いていないように首を振る。
「…目が覚めないということは、足りていないということだ。光の浄化が届けば、必ず――」
「もう十分届いてます!」
カインが肩を押さえつけるように言ったが、セオドールは離れようとしなかった。
ヒストリアの手を、自分の手で包み込む。
「…目を開けろ、ヒストリア」
悲痛な言葉に、カインは一つ息を吐くと、侍女を連れてきた。
「殿下、ヒストリア様の体を綺麗にしないと…。治りかけている怪我が余計に悪化します」
セオドールは鋭く睨む。
「……」
侍女とカインが同時に固まった。
「殿下、気持ちは分かりますけれど、ご自分でされるわけにはいかないでしょう?」
「……」
「殿下が離れない限り、彼女の処置が進みません。一時間だけでいいので風呂へ行ってください」
言葉の勢いに押され、セオドールはようやく立ち上がった。
「…一時間だけだ」
侍女は笑顔を必死に作った。
「は、はい……」
*******
急いで体を拭き、髪も濡れたまま、セオドールが寝室へ駆け戻る。
だが――、
侍女の気配がない。
代わりに、長い白髪の男が、ヒストリアの枕元に座っていた。
触れている指先から、淡い金色の光が流れ込み、ヒストリアの荒れていた肌がゆっくりと整っていく。
セオドールの心臓が殴られたように跳ねた。
「…誰だ、お前」
男は振り返りもせず、ため息をついた。
「ああ、来たか。相変わらずだな、クソガキ」
「…は?」
横柄な様子で振り返り、金の瞳でセオドールを射抜いた。
その瞳は、光そのもののような輝きをしている。
「自己紹介がお望みならしてやる。神殿から来たルーカス・エリオン大神官様だ。お前の兄が、ようやくまともな判断をしたらしい」
セオドールの表情から血の気が引く。
「…大神官、だと?なんで今さら…」
ルーカスは鼻で笑った。
「スクロールの作成が間に合わないと、魔法士たちが嘆いていたぞ。お前に破かれるだけの羊皮紙を作るのに、一体どれだけの労力がかかっていると思っている。時間の無駄にもほどがある」
黄金の光がヒストリアの胸に吸い込まれていく。
「意識が戻らない理由…、分かってんのか、クソガキ」
「…何だと」
自分と大して変わらないような年齢に見える男に、クソガキなどと言われる筋合いはない。
しかし、今はヒストリアが優先だ。
言葉をぐっと飲み込んだ。
「元々魔力のない身体に、強制的に魔力を流された痕跡がある。外傷や衰弱よりそっちのほうが深刻だ。本来なら魔法による治癒は逆効果になる場合がある」
セオドールの目が見開かれる。
「診断した医者は…、気付かなかったのか?」
「お前バカか?気付けるわけないだろ。そんなのが一瞬で見抜けるのは大神官か、神だ」
ひどく偉そうな口調だが、声だけは淡々としていた。
「…最初から俺にやらせていれば、三日も眠ったままになるわけがないんだよ。判断が悪かったな、クソガキ」
セオドールの怒りが頂点に達した。
彼は咄嗟に魔力を解放し、氷の刃のような殺気を周囲に散らす。
「…お前に口出しされる筋合いは――、」
ルーカスの指先がわずかに動いた瞬間、セオドールの魔力は外側から押し潰された。
「やめとけ。“魔力”で“神力”に勝てると思ってるなら、本物のバカだぞ?」
纏った殺気が瞬時に消え、セオドールは片膝をつく。
怒りで睨み上げるセオドールに、ルーカスは本気で相手にしていないといった表情を見せる。
「治療の邪魔だ。下がっとけ」
セオドールは喉を震わせ、叫ぶこともできず睨み続けるだけだった。
*******
しばらくして金の光が収束し、ルーカスは大きく息を吐いた。
「…よし。これでもうすぐ目を覚ますだろ。身体の巡りは整えた。精神も安定してる」
セオドールが立ち上がる。
「…ヒストリアは、助かったのか…?」
「この娘はまだ生きる。俺が神力で身体の根を組み直してやったからな」
ようやくセオドールの張りつめた体から緊張が抜けた。
ルーカスは立ち上がり、髪を払う。
「じゃ、あとは好きに見張ってろ。羊皮紙はもう使うなよ?無駄だ。俺はレオンハルトのところに行って文句のひとつも言わないと気が済まない」
最後に一言、
「…この娘が起きたら、ちゃんと礼を言わせろ。お前じゃなくて、俺にな」
扉を開き、大神官が静かに部屋を出ていった。




