46.断崖の令嬢
父の執務室から追い出され、自室で謹慎しているように命じられたセレナは、自室の扉を閉めた瞬間、ぐしゃりと床に崩れ落ちた。
震える呼吸。
涙と化粧の跡が頬を滴り落ちる。
鏡に映る自分は醜く、その醜さが、ますます怒りを呼んだ。
「…どうしてよ」
声は掠れ、震えていた。
「どうして、わたくしじゃなく…、あの女なのッ…!」
爪が床を深く掻く。
「魔獣だって…証拠だって…、全部お父様が整えてくれたのに…、あと少しだったのに…!!」
怒りが熱となり、頭の奥でじりじりと焼けつく。
彼女はふらりと立ち上がり、
机の引き出しを荒々しく開いた。
そこには、セオドールの子供の頃の肖像画、初めて舞踏会で一緒に踊った時に彼から貰ったハンカチ、やり取りしていた手紙の束。
そして、婚約しているときに贈られた氷花が、ガラスの箱に大切にしまわれていた。
それらを抱きしめ、狂おしいほどに胸に押し当てる。
「わたくしは…、あなたの隣に立つはずだったの」
ぐしゃぐしゃになった紙を握る手が震える。
「ヒストリアなんて、どうせどこから来たかも分からない下賤な女のくせに…ッ!」
セレナは涙混じりの声で叫ぶ。
「あなたはわたくしを見てくれた!舞踏会でも…婚約式でもッ…!わたくしのために微笑んでくれたじゃない…!!」
それは事実の歪曲で、セオドールの軽い礼儀の微笑みを“特別”として記憶しているだけだったが、彼女にはもう判別ができなかった。
その瞬間――、
ふいに彼女の思考が、ある一点に吸い寄せられる。
「…奪われたなら…、取り返せばいいわ」
ぽつりと落ちたその言葉は、狂気が滲んでいた。
セレナは机の奥にある、隠し扉の鍵を回し、そこに隠していた小箱を取り出す。
呪術が施された魔符。
記録魔法の破片。
罪の一部始終を別の誰かに見せかけるために準備していたもの。
「あの女がいなくなれば…、大公妃の座は空くわよね…?」
狂気が静かに笑みとなり、その口元をゆっくり吊り上げる。
「大丈夫…、わたくしは悪くない…。だってセオドール殿下は、私のもの…、大公妃の位は、わたくしにこそふさわしい…。あの女が邪魔なだけ…」
その呟きは、もう理性の色をしていなかった。
セレナは立ち上がり、窓越しに暗い帝都を見下ろした。
「奪ったなら、奪い返す。それが当然よね、セオドール殿下…?」
月光に照らされたその瞳は、
深い闇が堕ちていた。
*******
翌朝、セレナの部屋では、侍女が怯えた表情で紅茶を差し出していた。
セレナは、昨夜とは打って変わって微笑んでいる。
それが侍女をさらに怖がらせていた。
「ありがとう。下がっていいわ」
侍女が去るのを確認すると、セレナは紅茶に砂糖をひとつ落とした。
水面が揺れ、波紋広がる。
「…ふふっ…、記録魔法の映像を加工してくれた人には、後でちゃんとお礼をしないとね」
あの隠し扉のにあった小箱には、侯爵家が呪術士に作らせた改ざん魔法の原本がある。
ヒストリアが魔獣を呼び出す儀式を行っていたように見える映像。
実際には嘘だが、証拠として提出するには十分な威力だ。
しかし、その映像だけでは足りない。
セレナは机の上に広げた帝都の地図を見下ろした。
「――本物の罪も、用意しないとね」
細い指がある一点をなぞる。
帝国の古い貯水施設。
一般人が近づかない場所。
昔、魔獣の角を保管していた倉庫跡があることを、セレナは偶然知っていた。
「角が一つ残っているはず…。あれを持ち出して、ヒストリアの身元品と一緒に置けば―――」
声は甘く、うっとりしてさえいた。
「“魔獣使役の証拠”の完成ね」
彼女の目は完全に理性の光を失っていた。
嫉妬と憎悪と焦りで、息が荒くなる。
だが次の瞬間には、ふっと、笑った。
あまりにも静かで、怖い笑み。
「…急がなきゃ」
立ち上がったセレナは、衣装部屋の奥から黒い外套を引きずり出す。
「ヒストリアを救い出したところで、彼女が大公妃として相応しくないと分かれば…、殿下はきっとわたくしを選んでくれるわ」
外套を羽織り、セレナはそのまま部屋を出ていった。
廊下を歩く足取りは軽く、まるで恋人に会いに行く少女のように浮き立っていた。
その瞳には――、
救いの欠片も残っていない。
*******
静まり返った貯水施設。
屋内は湿った石壁に音が吸われ、魔力の流れだけが微かに脈打っている。
その地下階。
蝋燭が一本、ぽつりと灯されていた。
「…ちょうどいい場所ね」
柔らかな声が落ちる。
階段を下りてきたのは、黒い外套を羽織ったセレナだった。
手には、小さな黒革の箱。
カチ、と蓋を開けると、中には灰色がかった“魔獣の角の欠片”が光を帯びて転がっていた。
冷たい青紫の魔力がふわりと浮き上がる。
セレナは陶酔にも似た表情でそれを指先で撫でた。
「…ようやく、証拠が揃うわ。これで、あの子は完全に終わり」
だが、声は笑っているのに、目は笑っていない。
むしろ、焦りと狂気が混ざって怪しい光を帯びているように見える。
(――大公妃?あの子が?そんな価値、あるわけないでしょ…!)
セレナは奥歯を噛み、胸の奥の黒い不安をごまかすように角を握りしめる。
「お父様は“まだ動くな”と言うけど…、今動かないと、全部台無しよ」
掌から指先に赤い魔力が走る。
「ヒストリアが暗殺未遂犯である証拠を、確定させなきゃ。皇后を狙った魔獣の残滓を、この貯水施設に残せば…」
セレナは足元の排水路へゆっくり歩き、魔獣の角を掲げる。
「セオドールが彼女を連れ出しても…、犯行の証拠が見つかれば、帝国は彼女を無罪になんてできないわ。正義を曲げることはできないもの」
もはや彼女の中で、正義自体がねじ曲げられていた。
角を砕くため、魔力を込める。
パキ……パキリッ…
破片が地面に散り、赤の魔力が広がる。
そのとき、背後から声がした。
「誰だ!」
振り返る。
年若い警備兵が立っていた。
「…オルディス侯爵家のものよ」
「し、失礼しました!しかし、宰相家のご令嬢がこんな場所で何を…?」
セレナは瞬きもせず微笑んだ。
「ああ、ごめんなさい。でも、あなたに見られるのは…、少し都合が悪いわね」
兵士が怯えて後ずさる。
「な、何を…っ」
セレナの指先が淡い光を帯びた。
「怖がらなくていいわ。あなたには見ていないことにしてもらうだけ」
「や、やめ――」
ぱん、と空気が弾ける。
兵士はその場に崩れ落ち、
意識のない身体が石床に転がった。
セレナは無感情に、倒れた男を横目に見下ろす。
「わたくしの邪魔は、誰にもさせないわ」
そして、散らばった魔獣の残滓と、ヒストリアが魔獣を放つ偽映像の記録魔法がかけられている魔符を、排水路へと押し流すように魔法をかける。
赤い光が水の流れに混ざり、ゆっくりと奥へ、奥へと吸い込まれていく。
セレナはほっと胸を撫で下ろした。
「これでヒストリアが魔獣を仕込んだってことになるわ。逃げても、隠れても、もう終わりよ」
蝋燭の光の中、セレナは狂気の笑みを広げる。
「セオドール殿下の隣は、…私のものよ」
混じり気のない声。
石壁にその不気味な響きだけが残った。




