4.氷上の城
カインの言った通り、国境の木から少し離れたあたりから、なぜか雪は深くなるのに寒さはそれほど感じなかった。
それがどういった魔法なのか、ヒストリアにはわからなかったが、それをカインに聞くことよりも、この男には関わりたくないというのが正直な気持ちだった。
「…さぁ、そろそろ城に着きますよ」
その言葉に窓の外を見てみるが、雪が降る景色に変化はない。
(…あ…れ?)
ヒストリアは違和感に息を呑んだ。
(…いつから…?)
気付くと馬車に揺れがない。
あれだけ規則的にリズムを刻んでいたのに。
そして、積もっているはずの雪が見えない。
地面が――ない…?
灰色の雲の切れ間、淡い青い光。
馬車の外には、ふわりと漂う雪片が浮かんでおり、その中を馬車がゆっくりと下へ進んでいく。
それはまるで氷の底へ引きずりこまれるようだった。
「…これは…、」
向かいの席のカインに目を向けると、落ち着いた声が返ってくる。
「ご心配なさらず。大公国ノルディア式の出迎えです。殿下の魔法がこの地を覆っているので馬車が落ちることはありません」
ヒストリアは息を呑んだまま下を覗きこむと、大きな光る山が見えた。
―――馬車が近づくにつれてよりはっきり見える。
氷の湖の上に浮かび上がったのは山ではなく城だ。
屋根も城壁も、全てが光を反射して淡く輝いていた。
雪原の上に浮かぶその姿は、神殿のようであり、牢獄のようでもあった。
雲を抜けると、馬車はさらにゆっくり降下していく。
下に広がるのは無音の世界。
氷が鏡のように空を映していた。
ふとカインを見ると、淡く微笑む。
「ノルディア城へようこそ」
馬車がゆっくり城の中庭へ着地した。
馬車の扉が開かれる。
外に広がる光景は、あまりにも静寂で美しい世界だった。
氷の大公国―――
もう後戻りはできない。
ヒストリアは馬車を降りて、その世界に足を踏み出した。
城門をくぐったところで、迎えの兵士がカインに一礼をする。
「殿下は只今、北方の戦線に出陣なさっております」
カインが目を細める。
「お戻りは」
「半月ほどかと」
さらに兵士が続ける。
「殿下より命を受けております。殿下が戻られるまで、花嫁様には離れでお過ごしいただきます。本城への立ち入りはお控えください」
その言葉に従い、ヒストリアは離れに向かっている。
静かな白銀の回廊には、案内役の兵士の靴音がやけに規則正しく響いていた。
互いに一言も話さなかったが、ヒストリアの目に映る城の中はどこも美しく、恐ろしいほど整然としている。
ようやく辿り着いた先は、城の最奥にある離れの塔。
扉は厚い鋼鉄で、鍵が二重にかけられている。
「では、しばらくこちらでお過ごしください」
案内役の兵士が機械的に頭を下げた。
「あの…―――」
「侍女を一人おつけします。何かあればその者に。また、塔の入り口には衛兵を常駐させます。ご安心を」
―――"ご安心を"
その言葉にヒストリアは微かに眉をひそめる。
この前まで軟禁されていた部屋と同じで、自分を守るために配置されている兵士ではないんだろうと思った。
中に入ると、部屋は驚くほど整っていた。
大きな暖炉に絹の寝具、窓辺には小さな白い花が飾られている。
それほど広いとは言えないが、ヒストリアにとっては何一つ不自由がない。
しかし、花瓶が置いてある窓には細い鉄格子がはめられていて、扉の外には衛兵の影が見えた。
まるで囚われた籠の中の鳥―――
そもそも、最初からそう扱うつもりなのだろう。
ここ数日、いろいろなことがありすぎた。
触り心地の良い絹の寝具の上に横になると、泥のように一瞬で眠りに引き込まれる。
同時刻、北の氷原―――
吹雪の中、遠征中の大公セオドールは、雪上に膝をつき魔方陣を展開していた。
氷のような青白い光が浮き出てきたかと思えば空中で歪み、そこに現れたのは側近であるカインの姿。
"殿下、予定通り姫は離れに隔離しました"
青く透き通ったカインが話し出す。
どうやら、遠隔で会話ができる魔法のようだ。
「…様子は?」
セオドールの低い声が、白い息と共に吐き出された。
剣の手入れをしている途中だったのか、刃に付いた血を淡々と拭っている。
"見たところ、怯えたりもしてないし、目立った反抗もありません"
「他には?」
"綺麗な方でした"
「…なに?」
カインの言葉に思わずセオドールの手が止まる。
"美しい娘だと言ったんです"
「ふざけているのか?」
そう言うのが早いか、それとも同時か、
青白く光るカインの姿が、セオドールの持っていた剣で真っ二つに切り裂かれた。
もちろん実体ではないため、弾けて空気の中に溶け込んだ光が再び歪み、カインの形を作っていく。
"ちょ、ちょっと殿下!魔方陣越しとはいえ、いきなり攻撃するのはやめてください"
元通りになったカインが、不満な様子で
――…ったく、短気だな…――と呟く。
「お前がふざけるからだろ。今すぐ本物の体を切られたくなければ真面目に報告しろ」
"…目の色が違います"
「…目?」
"フェルバールの姫は、白金の髪に緑色の瞳だと聞いていましたが、彼女の目はルビーのように真っ赤です"
「…つまり、偽物か」
"えぇ、リヴィアナ姫ではないかと。髪は美しいプラチナブロンドですが、おそらくは偽の姫。名ばかりの贈り物でしょう"
セオドールは小さく息を吐く。
冷たい風が彼の長い外套を揺らした。
「殺す必要は?」
"今のところは。…少々、興味深い点も"
「興味だと?…もしもまた綺麗だのなんだのとほざいたら、帰還し次第、二度と無駄口を叩けないようにお前の首と胴体を切り離す」
"違いますよ…ッ、彼女の手です!"
「手がどうした」
"王族のものとは思えないほど荒れています"
それに―――
カインの口角が僅かに上がる。
"…おそらく、剣を扱う者かと。それも相当な手練れとみました"
「…暗殺者を城の中に囲ったのか?」
"…はっ…、あなたを暗殺できる人間がいるなら会ってみたい"
カインは一拍置いて、笑いを含んだ声で言った。
「…俺にそんな口をきける命知らずはお前くらいだろうな。…で、お前はどうする」
"…うーん…、とりあえず殿下が戻られるまで監視を続けます。なんだか面白そうなので"
―――お前の退屈しのぎじゃない。
そう言い捨てて、セオドールは魔方陣が描かれた雪をグシャっと踏み潰した。
カインを象っていた光が一瞬で空気に溶け込むように消えてなくなる。
セオドールの白銀の髪が、氷の風に揺れた。




